フローレンス・ナイチンゲール
生誕200年記念

愛に支えられた
生涯偉業

教育心理学博士久間圭子

目次

※はしがき、あらまし、他の内容は全て選択して読めます。

「赤十字の母」ナイチンゲールよ、永遠に!

はしがき

『ソルフェーノの思い出』(1862.11)の著者で、国際赤十字を創立(1864.8)したスイス人(Jean Henri Dunant)は、ロンドンで行った講演(1872)で次のように述べている。

この条約(赤十字条約1864.8)の栄誉は、(私ではなく)一人の英国女性のものです。
私が1859年にイタリアの戦争に出向いたのは、クリミア戦争におけるフローレンス・ナイチンゲールの仕事に感動したからです(p510)。

クリミア戦争(1853-56)は複数の国家が参加した大戦で、約160万人の兵士が戦い、75万人を超える死者がでた。その三年後、イタリアで起こったソルフェーノの戦い(1859.5)では、およそ30万人の兵士が戦い、死者は2万人を超えた。ナイチンゲールとデュナンは、工業革命と植民地の拡大に伴う戦争の世紀を共に生き、戦場で苦しむ兵士のために多大な貢献をしたのである。

赤十字の発展とナイチンゲール

「ランプを持つ貴婦人」というナイチンゲールのイメージは、人々の脳裏から消えることはない。

そして、救護現場で見るトラック・旗・救護隊の赤十字のマークは強烈である。被災者にとって、赤十字はまさに「地獄に仏」。今後も、赤十字の活動範囲は拡大し、戦争捕虜への人道的救援、戦争に加えて自然災害・人的災害など、その役割はますます重要になっていく。

デュナンが著書で指摘した赤十字思想(人道)は、西洋では古くから実践されていた。ソクラテスに造詣の深いナイチンゲールは、戦争の世紀で起こった最大の戦争で初めて赤十字思想を実践した人。英国の貴族は、領地のある地方を代表する政治家、あるいは知識層として、地方の住民のためにボランティア活動をした。

ナイチンゲールの生活費、教育・研究費、旅費など、すべて父からの資金であった。衛生改革に必要な資金を得るため政治家に働きかけたが、ボランティア活動を否定したわけではない。

ナイチンゲール記章が伝えるナイチンゲール像

ヴィクトリア女王が君臨した19世紀は、世界の覇者となったイギリスにとって戦争の世紀でもあった。女王とナイチンゲールは、戦争の悲劇を緩和するために共に戦ったのである。クリミア戦争後も、イギリス政府は、アメリカの南北戦争(1865)、独仏戦争(1870)英国軍の遠征(中国・カナダ・アフリカ)において、ナイチンゲールに助けを求めた。英軍のアフリカ遠征において、ナイチンゲールは英国赤十字社の役員として、看護団派遣を指揮している。

ナイチンゲールと赤十字の父デュナンは、同じく1910年に逝去。二人の没後20年に始まったナイチンゲール記章授賞式は、「国際赤十字の母」としてのナイチンゲール像を後世まで伝える証である。

追記:日本赤十字の父・佐野常民

佐野常民(1823-1902)は、佐賀藩士の五男、藩医の養子となり大阪や江戸で蘭学・医学を学んだ。幕府の長崎海軍伝習所で航海・造戦術を学び佐賀藩三重津で日本初の蒸気船を完成した。その後、パリの万国博覧会(1867)とウィーンの万国博覧会(1873)に出席し、西欧の知識・技術・思想の見聞・習得、各国に赤十字社が組織されていることを知った。

常民は西南の役(1877)の惨状に心を痛め、博愛社を創設し、敵味方の区別なく負傷者を救護した。日本赤十字本社が所蔵する「博愛社許可の図」の油絵がある。熊本城内で救護団体の結成が許可された瞬間に、佐野常民が感激のあまり号泣する姿が描かれている。常民は10年後に日本赤十字社の初代社長に就任した。

戦争が終わっても自然災害は絶えない。幕末から明治時代を駆けぬけたマルチ人間・常民の功績は数多いが、赤十字思想の実践こそ常民の名を後世に伝える最大の貢献ではないか。常民の生地である佐賀県、西南戦争で赤十字発祥の地である熊本県、これらの県が位置する九州の人々には、赤十字活動のリーダーシップが期待される。