フローレンス・ナイチンゲール
生誕200年記念

愛に支えられた
生涯偉業

教育心理学博士久間圭子

目次

※はしがき、あらまし、他の内容は全て選択して読めます。

あらまし

FNの両親は、どちらも農業社会の貴族だった。伯父の領地を相続した父(WEN)は、母(Funny)と結婚後、その地に新しい館を建築する計画を立てた。館が完成するまで、二人はイタリアへ新婚旅行に出かけて3年ほど滞在した。姉(Parthenope)とFN(Florence)は、どちらも誕生した都市に因んだ名前である。

FNにとって決定的な出来事は、家族がヨーロッパの長期滞在を計画していた年の2月に、漠然とした神の声を聞いたことだ。FNはこのことを心の奥に秘めて、誰にも話していない。同年の9月に、一家はヨーロッパに向けて旅立った。滞在は2年近く続き、FNが19歳の誕生日を迎える前月に帰国した。

FNは若いときから、大家族の乳幼児や病人のケアと看取りを経験している。病気の経過を観察している間に、FNは自然の力が働いて病気が癒されることに気づいたと思われる。この自然の法則を、後に「健康の法則」=「看護の法則」と定義した。しかし、FNが病気や死の苦しみから人々を救うミッションを考え始めたのは、ヨーロッパの旅の後からだった。

FNが26歳になったとき、館を訪れた病院長に、突然、病院で働きたいと申し出た。家族は「病院」と聞いただけで身震いした。当時の病院は不潔きわまり、病人とナースは酒におぼれ、道徳など考えなかった。例外はカトリックのシスターたちによる看護だった。

その日から8年間、自分のミッションを考え初めてから14年間、FNは家族の強い反対の中で、看護への厳しい道を歩んだ。秘密裡に学んでいた数学をベースに、専門家から統計学を学び、イギリスとヨーロッパの病院で資料の収集・分析を続けた。やがてドイツの看護学校へ入学(30歳)し、ロンドンの婦人病院の監督(33-34歳)を務め、国家の信任を得て、クリミア戦争で負傷兵を看護(34-36歳)した。

「クリミアの天使」の名声は、ヨーロッパへ、そして世界に広まった。赤十字の創始者(Henry Dunant)は、後にロンドンで行った講演の中で、FNの偉業を称えた。しかし、FNにとって、クリミア戦争看護(1854-56)は一つの到達点に過ぎない。兵舎の泥の上で空しく死んでいった兵士の声が、FNを更に厳しいミッションへと駆り立てた・・・。

最大の貢献は、クリミア戦争の後で半世紀近い間、衛生改革によって兵士たちの、そして世界の人々の病気を予防し癒したことであろう。FNが生涯をかけた衛生改革の理論と実践は、ベストセラーとなった二冊の著書、『病院覚え書』と『看護覚え書』に垣間見ることができる。それは、健康なときも病気のときも、自然の法則を敬う環境の中で行う心と体の看護であり、今も世界中で継承されている。

文献

*Florence Nightingale 1820-1910 by Cecil Woodham-Smith: Constable London. 1950

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