フローレンス・ナイチンゲール
生誕200年記念

愛に支えられた
生涯偉業

教育心理学博士久間圭子

目次

※はしがき、あらまし、他の内容は全て選択して読めます。

終章 親しい人々の愛と看取りと

はしがき

クリミア戦争の看護を終えた直後から5年間、FNは英国軍の衛生改革の鍵となる組織改革を追求した。国家を巻き込む戦争の時代、改革は政治情勢に奔走される厳しい闘いとなった。結果として、組織改革は実現しなかったが、衛生改革は英国から世界へと拡大して行く。

世界中の兵士と一般人の命を救ったFNの偉業を応援した人は数え切れない。彼らの名前が、伝記*の中で星のように輝き、やがて消えて行く。終章は、最後の星を見守ってから生涯を閉じたFNの愛と看取りのストーリーである。

*  *  *  *

父WENの計算によると、FNが14歳のとき、両親の兄弟姉妹と、義理の兄弟姉妹(伯父や叔母)が24人、彼らの子ども(FNの第一いとこ)は27人だった。いとこの一人が結婚する度に、義理の家族が親族となり、大家族の増加は孫の代まで続いた。

この中で、FNが頻繁に手紙を交換した人は、家族(父・母・姉)と、母方(the Nicholsons、the Carters)と、父方(the Smiths)の親族のメンバーだった。加えて社交界や仕事を通して親しくなった人も数多い。終章では、FNが交換した無数の手紙とプライベートノートが語る愛と看取りのエピソードをいくつか述べる。

ハーバート卿と輝く星の群れ

ハーバート卿は、FNに協力した最高の星で、二人の出会いはあこがれの都ローマだった。少女時代のFNが、家族と夢のような日々を送ってから、すでに10年の月日が流れていた。上級貴族で政界の重臣だったハーバート卿は、「天使のような美しく ‘beautiful as an angel’」「騎士のように勇敢で、輝くほど賢く、途方もない財産家」だったという。

軍の組織改革に協力した5年後、彼は持病の悪化と過労のために亡くなった。 FNは軍の組織改革をあきらめ、残されたインドにおける英国軍の衛生改革を続けた。

ハーバート卿の死(1861)から女王の死(1901)までの40年間とその後も、FNはインドにおける衛生改革に関わり続けた。インドの衛生改革の基礎とされたFN作成の統計資料は、斬新なイラストがあふれる最高の作品だった。

FNが晩年まで住んだサウスストリートの家は、あふれる陽光と生花が絶えなかったという。整頓された白一色の室内には、FNがローマの教会で目を離せなかったミケランジェロの壁画の絵が飾られていた。同じ壁に騎士のような男性(John Lawrence)の写真があった。

インドの衛生改革は、民族の反乱などで難航し、労多く実り少ない事業だった。改革が最高潮に達したのは、ハーバート卿の没後、J.ローレンスがインドに就任したときだった。FNはローレンスに心酔し、彼を中世の有名な騎士(Bayard)になぞらえ、改革実現の夢がふくらんだ。ミケランジェロの壁画とローレンスの写真は、反対勢力と闘い続けた苦節の人生の思い出の中で、忘れえぬ瞬間だったのだろう。

姉の結婚とFN晩年の愛

クリミアから帰国したFNは、女王の応援を得て、軍の衛生改革を進める委員会(The Sanitary Commission)を設置(1857.5)した。事実上の委員長となったFNは、必要な資料作成のため、ロンドンの猛暑の中で一日22時間も働いた。その頃、地方貴族で有名な政治家(Sir Harry Verney)が頻繁にFNを訪れた。前年亡くなった妻が、娘たちとFNの面会を強く望んだという。彼は結婚を申しでた。

委員会の仕事が忙しいFNにとって結婚は論外であった。ヴァニー氏は間もなく南の館に滞在し、翌年40歳の姉(Parthe)と結婚する。ヴァニー氏は政治家として、姉はレディ・ヴァニーとしてFNを応援した。FNは歴史的なヴァニー家の美しい館(Claydon House)で一室を与えられ、家族の憧れの的となった。しばしば外国からの賓客も迎えている。

姉は最後の7年間、リューマチが悪化し70歳で亡くなった。FNはヴァニー家の大黒柱となって、マネジメントの手腕を発揮した。FNとヴァニーは一層親密になり、地域の衛生改革など新しい事業を始めた。ヴァニーの懇願で撮影された写真が、二人の愛の形見として残っている。

聖トーマス病院とナイチンゲール・ナースたち 

クリミアの天使と称えられながら、衛生改革という革命的な事業に専念した5年間で最も苦しかった頃、FNは『病院覚え書』と『看護覚え書』を出版(いずれも初版1859)した。著書の出版を契機に、FNはセント・トーマス病院でナイチンゲール・ナースの教育に協力した。しかし教育改革に専念したのは、戦争事務局を退職(1872)した後だった。

FNの教育理念は、理性(mind)と性格(character)の育成であった。政府の役職から退いてからは、特に性格の育成に尽力した。学生の一人ひとりを熟知し、在学中・就職時・就職後も個人的に指導しフォローした。個人に適した仕事を探し、お祝いの花束を贈った。問題があればいつでも相談に応じ、食事やお茶に招待した。

母ファニーに似て気前のよいFNは、ナイチンゲール・ハウスに果物・ゲーム・スィーツ・卵・バターなど、花をそえて届けた。ナースが旅するときは、男性使用人が駅で迎えて昼食のバスケットを届けた。FNは、若いナースたちと会う機会を楽しみにしていたという。学生たちに囲まれた晩年の写真が残っている。

苦節の生涯を支えた心の友

家族との対立を克服した後、FNはクリミア戦争の看護で、ジャンヌ・ダルクの苦しみを経験した。帰国後の衛生改革においても、政府や官僚との激しい闘争が絶えなかった。様々な苦難を乗り超えるために、FNは無数の手紙やノートを書き、宗教・哲学に没頭し、著書や論文を執筆している。

著書の一冊(Suggestions for Thought)は、カイゼルベルトで学ぶ以前(1851)に執筆したが出版できなかった。クリミアから帰国し、軍の組織改革を進めた時代に、FNは再執筆してプライベートに出版(1858)した。読者の意見を聞くため、著書はFNの名前を伏せて知人に配布された。その一人が、叔母メイの娘婿(Arthur Claw)の友人(Jowett)だった。

査読者の意見は厳しく、本は出版に至らなかった。最大の収穫は、この本を通して、FNは最晩年まで最大の理解者となった友を得たことである。ジョエットは、進歩的で一風変わったギリシャ哲学者、オックスフォード大学の教授だった。彼はFNの悩みを聞いて、的確なアドバイスを与えた。二人はお互いの執筆を助け合い、晩年はジョエットがクレイドン・ハウスを訪れ親しく交流している。

老い行く両親に寄添って

ジョエットはFNの家族とも親しくなり、南の館にしばしば滞在した。一方、FNはクリミアから帰国後、政府の内部に入り組織改革委員会の中心人物となった。多忙なFNは9年間(1857-1866)館に行かなかった。

ジョエットに懇願されて南の館に帰ったとき、WENが72歳、ファニーが78歳だった。二人は視力が悪化し、ファニーは馬車で怪我をした。FNは両親を助けるために、館で3カ月の長期滞在をした。その6年後に、ファニーのメイドが死亡(1872)し、FNは南の館で生活することになった。

いつも母と一緒だった姉は、有名な貴族・政治家の妻としての役割があった。得意のアートに加え、小説を書き信奉者が少なくなかったという。FNもインドの英軍の衛生改革に加え、セント・トーマス病院の看護教育改革などで多忙だった。しかし、マネジメントに長けたFNが、館に住み年老いた両親を支えることになる。

FNが仕事のためロンドンに滞在していたとき、WENが階段から落ちて即死した。伯父の遺言により、二つの館は叔母メイ一家の財産となる。ファニーは、使用人やFNと共に北の館に移動した。WENが残した財産と使用人の管理に加え、記憶力が衰えたファニーの介護がFNに重く押しかかった。

WENの死から6年後、ファニー(92歳)が亡くなった。聖歌を聞きながらの平和な最後だった。FNにとってこの6年間は、クリミア時代よりも、一日22時間働いた5年間の軍の組織改革よりも、過酷な年月だったという。この間、FNはロンドンに住むジョエットと交流し、宗教と哲学の書を読み執筆を続けている。

両親と姉や、親しい人たちを看取ったFNは、宗教と哲学に支えられ、残る30年の人生を歩むことになる。1890年代(FN70代)に入って、最大の応援者だったジョエット、ヴァニー卿、ショーアが続けて亡くなった。南の館に住んだショーアの母メイと父はすでに亡くなっていた。数年後、南の館が売却され、FNは深い喪失感に襲われた。

「昔を語れる人は誰もいない、だからこそ後継者を確かめたい。」‘I have no one now to whom I could speak of those who are gone.  But all the more I am eager to see successors.’

愛する三人を続けて失った後に書かれたノートの一節である。

次世代と親しむ晩年

女王の祝賀祭(Diamond Jublee,1897)が盛大に行われた。それはFNの祝賀祭でもあり、再び世界の注目が集まった。女王の没後(1901)、FNは視力を失ったが、インドの衛生改革のレポートや新聞を読んでもらい、訪問者を驚かすほど時事に通じていたと言う。その後も、ロンドン国際赤十字大会(1907)や、ナイチンゲール・スクールの祝賀祭(1910)がニューヨークのカーネギーホールで開催され、FNの功績を称えた。

国際赤十字大会の後では、FNを覚えていた軍の最高司令官や、アレキサンドラ女王からのメッセージがあり、ドイツ皇帝からは見事な花束が贈られた。巨大な花束は、谷間のゆりとピンクのカーネーションで、ピンクのりぼんが飾られていた。

ナイチンゲール・ナースたちは、すでに英国と世界の主要国(カナダ・USA・オーストラ・ドイツ・スエーデン)や植民地国(インド・セイロン)で、看護教育を指導していた。アメリカだけでも、養成校は1000校を超えた。

こうした名声の中で、FNは若い世代とプライベートな生活を楽しんだ。特に叔母メイの息子と娘の家族と親密で、姉が結婚したヴァニー氏の息子と娘たちとも親しく交流した。恋愛の話、試験の話など、話題が絶えなかった。FNはお祝いのカードや手紙を書き、ゼリーやケーキ、菜食者に卵や豆まで送った。ヴァニーの娘(Ellin)に赤ちゃんが生まれたとき、FNは「最も美しい名前(Balaclava)」を与えた。

おわりに

主要道路からはずれたEast Wellowの森の中、細い道を進んで行くと、13世紀に建てられたという小さな石造りの教会(St. Margaret’s)が見える。裏庭は緑の芝生で、数十個の質素な墓石が立っている。後方に白い大理石で、教会の尖塔を形にしたナイチンゲール家の墓が見える。

墓の正面はFNの遺言により、最上部に十字架、続く三行は、F.N./Born May 12 1820./Died August 13 1910.と刻まれている。墓地は、FNが最も愛した南の館があるエンブレイに近い。


  • 美しい自然の中で

  • 最も愛した南の館

  • ナイチンゲール像

  • ナイチンゲール家の墓

注:久間圭子撮影。ナイチンゲールに関する他の写真はネットで見られます。

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