フローレンス・ナイチンゲール
生誕200年記念

愛に支えられた
生涯偉業

教育心理学博士久間圭子

目次

※はしがき、あらまし、他の内容は全て選択して読めます。

第II部 クリミアの天使として

第4章 ヴィクトリア女王と共に

若き日の女王とFN

“The sun never sets on the British Empire” ヴィクトリア女王が君臨した63年間(1837-1901)、大英帝国は地球の5大陸と島々を植民地とする太陽の沈まない国であった。女王はFNより1歳年上で同じ5月生まれ、FNが幼い頃から女王を意識していたことは容易に想像できる。女王に即位(1837.6)した4カ月前に、FNは神の声を聴いている。

ナイチンゲール一家は、同年の9月にヨーロッパの旅に出発した。一家が帰国したのは、FNが19歳を迎えるひと月前だった。その後、ロンドンに滞在したFNは、婚約した女王と社交界で何回か会っている。女王(20歳)は翌年1月に結婚した。

やがて14年の月日が流れ、FN(34歳)は、国家の信任を受けてクリミア戦争へ。陸軍大臣・ハーバート卿がFNに渡した文書によると、「恐怖に立ち向かう知識と善意、甚大な熱意と勇気を必要とする仕事」だった。クリミア戦争をきっかけに、女王とFNは、英国軍と国民の健康というミッションの絆で結ばれ、長い人生を共に歩む運命となった。

ナイチンゲールの登場 

クリミア戦争(1853.10-1856.2)は、連合軍(英・仏・トルコ)とロシア軍との熾烈な戦いだった。それまで最大規模の戦争で、およそ165万人の兵士が参加し、90万人の死者がでた。ナポレオンに勝利してから20年が過ぎた英国軍は、予算が削減され、十分な軍備ができないほど疲弊していた。

英国軍は、トルコ領スクタリの兵舎(barrack)の他に、クリミアの二つの病院に負傷兵を受け入れた。物資が極度に不足し医療スタッフも少ない中、一度に数百人から千人以上の負傷兵が送られてきた。大多数はコレラに感染し、スクタリの兵舎の泥の上で死んだ。

この惨状が新聞に報道され国民は激怒した。記者はフランス軍の看護を担う尼僧(Sisters of charity)を紹介した。軍部は惨状を否定したが、陸軍大臣・ハーバート卿は、ナイチンゲールに看護の大役を賭けたのである。内閣の承認を得た文書は、FNが働く場所・役割・医師の許可など、様々な規定があった。

国家が要請した高尚な役割に、ナイチンゲール家はもちろん、国民からも尊敬と期待が集まった。FNはハーバート卿のロンドン邸を本拠に、ナースの人選・業務・賃金など周到な準備をした。最終的に看護団は、看護経験者で一般人14人と尼僧24人で結成された。

興味深いエピソードは、ボランティアとして同行した夫妻(Bracebridge)の夫が、箱一杯の現金を運んだという!

スクタリの野戦病院へ

一行は10月下旬に列車でフランスへ到着、一泊して翌日フランスの港(Marseilles)に到着した。そこでは、フランス政府、イギリス大使館、英国軍の役人がFNを出迎えた。タイムズ新聞記者の取材や、女王の特使がメッセージを届けた。その日のFNはひときわ麗しく、素晴らしい印象を与えたという。

翌日10月28日にフランスの港を出発し、11月3日トルコの港(Constantinople)に到着した。土砂降りの雨の中、対岸の向こうに巨大な病院の建物が見えた。翌朝は晴れて一行は高台にある病院の坂道を登った。泥の中に馬の死骸が横たわり、犬の群れが争いながら吠えた。昇りつめると病院の大きな門があった。

「この門を通る者は、すべての希望を捨てよ」

後にFNは、このフレーズを門の上方に掲げるべきだと言った。この瞬間からFNにとって地獄のような苦難の日々が始まったのである。

戦場における苦難と女王の支援

最大の苦難は、軍部のトップから現場の医師までが、女性の看護に反感を持ち根強い妨害が続いたこと。他はきびしい寒気やコレラとの闘いだった。医療スタッフもコレラに感染して死亡し、FN自身も「クリミアの熱病」で入院している。

到着後、最初の仕事は土間だけの兵舎にベッドや家具を入れることだった。食料・寝具などの調達はお役所仕事で、多大な労力と時間を要した。医師の指示が必要な食料・物資の配布は妨害され、FNは何回かプライベート資金を負担している。他にも、歪められた新聞記事や、看護業務をめぐる宗教団体との対立などによる心労が絶えなかった。

女王はクリミア戦争の事情に心を痛め、FNが戦場からハーバート大臣に送った数十通の手紙を読んだ。そして兵士が必要なベッドや物品を戦地に送った。FNが病気で静養中に、突然FNに会いたいと、遠方から馬に乗り騎士を思わせる男性が訪問した。彼はFNの知人で、電報でFNの容態を女王に報告した。

ヴィクトリア女王の手紙

FNの究極の目標は、職業としての看護による貢献を示すことだった。FNにとって病人の看護は最大の喜びだった。しかし、看護団の最高指揮者として、FNは人事や物品管理に多大な労力を費やした。医師の妨害と宗教団体が送ったナースの行動など、人事に関する交渉は大きな負担となった。女王は苦悩するFNに、時を得て様々な応援をしている。

可哀そうな、傷つき、病で苦しむ、気高い男性たちに伝えてください。女王である私は誰よりも彼らの尊厳と勇気を敬い、温かく見守っていることを。私とプリンスは、夜も昼も愛しい軍隊のことを考えています。ハーバート夫人が、私たちのことばを、気高いレディたちに伝えるようにお願いします。なぜなら、高尚な仲間たちは私たちの同情を大切にしてくれるからです。

女王からの手紙の一部である。続いてクリスマス・プレゼントが送られ、FNへの感謝のメッセージがあった。

あなたが負傷と病気に苦しむ兵士に寄添う善意と献身に、最大の賛同と尊敬を表します。病む兵士が証言したように、あなたの限りない勇気と忍耐を認め報いるために、女王は何ができるかを示唆してください。

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第5章 ‘クリミアの天使’の伝説が広まる

FNの看護の伝説が生まれた

FNのパッションは、人事や物品の管理ではなく病人の看護だった。手術の介助では患者に寄添い、術後はベッド・サイドにひざまずいて何時間も包帯交換を続けた。入院して間もない患者の病状もすばやく把握した。重症者の看護を優先し、「一人で死んではいけない」と彼らの死を看取り、兵士の家族へ夜通し手紙を書いた。

ランプの光で、一人ひとりの患者を見守るやさしい姿は、荒くれ男たちにとって聖者のようであった。彼らは飲酒をやめ、痛みを我慢し、言葉を慎み、家族に手紙を書いた。FNが通り過ぎる影にキスする者もいた。帰還した兵士たちがこの経験を語り伝え、国民の間に「クリミアの天使」の伝説が広まった。

FNがクリミアに到着してから6カ月(1955.5)後、スクタリの兵舎では、大きな改善が見られた。一度に数百人の負傷者を受け入れ、彼らの体を洗い、散髪し、清潔な病衣とベッドで、おいしい食事がでた。

驚くべきことは、統計学で鍛えた綿密な記録だった。FNは受取った物資はもちろん、入院や死者数を綿密に記録した。恐ろしいほど高い死亡率(70%)が、到着から半年以内に激減した。統計によると、死亡率は直近の3週間(1855.4.7)まで14.5%に、28日まで10.7%、5月19日までは5.2%まで下がった(p213)。

クリミアにおける敗北と勝利と

FNの一行が到着直後、緊急事態にあったスクタリの病院の危機は回避され死亡率は低下した。FNの努力によって手術台や医療機具が揃い、薬やサプライも十分だった。フランス人のシェフが、ボランティアとして働き、おいしい食事がでた。数百人の負傷兵は手厚い看護を受けた。

厳しい冬の気候と医師の妨害や反対の中で、一定の成果を収めたFNは、5月になって他の二つの病院(General Hospital & Castle Hospital)に行く決心をした。これらの病院はFNを敵対視する医師(John Hall)個人の支配下にあり、そこで働くナースの行為が物議されていたからだ。

ところが、病院では医師による妨害に加えて、宗教団体のナースによる中傷、FN自身の病気と入院、感染症によるスタッフの死や退職などがあった。最大の打撃は医師(John Hall)が、FNの権限はスクタリの病院に限定され、他の病院では適用されないと主張したことだった。

軍隊では組織とランクによって仕事が進められる。与えられた地位を取り戻すために、FNは粘り強く政府と交渉を続けて最終的に勝利した。ここでも、女王の支援が功を奏した。

自分の正当な役割を得たFNは、女性による戦争看護の貢献を証明し、人間の屑とされた兵士たちは「クリスチャンの男」という尊厳を得た。

戦争は連合軍が勝利(1856.2)し、パリで平和宣言(1856.4.29)が行われた。最後の仕事は残された患者の退院と、ナースやシスターの帰国だった。FNはナースの帰国を個人的に支援し、最後の患者が退院(1856.7.16)した後帰途についた。

たった一人で我が家へ到着

FNは自分の苦しみを、フランス軍のために戦い、イギリス軍によって焼死した女性「Joan of Ark(ジャンヌダルク)」にたとえている。苦しみの中で、自分が救えなかった何万人もの「愛しい子どもたち」の声が、クリミアの墓の下から聞こえた。FNの心は呵責の念で一杯だった。

一方、イギリス政府は、国家的英雄として歓迎する準備を進めていた。FNはパレードも、インタビューも、講演も、全て断った。なぜなら、地獄のような戦場で、兵士たちが弾丸ではなく「軍部のシステムによって殺害」されたと確信していたからだ。

深い悲しみと罪悪感で消沈したFNは、叔母のメイと船でトルコのコンスタンティノープル(現・イスタンブール)を経て、フランス南部の港(marseille)に到着した。その後パリに数日滞在してから、一人で列車の旅をして北の館に辿りついた。夕方になって、FNの部屋から外を見ていた家政婦が、黒いドレスを着て裏門から一人で歩いてくるFNの姿を見た。静かな再会だった。

クリミアの天使の伝説:イギリスから世界へ

一方、国民の尊敬と親愛(admiration & affection)は高まるばかり、FNがクリミアで経験した医師や宗教団体の態度とは正反対だった。「クリミアの天使」の伝説は、イギリスで爆発的に広まり、後に世界へ広まった。工業革命が必要とした植民地の覇権を争った時代、女性による看護は、戦争に命をかけた兵士と家族に希望を与えた。

クリミアの天使の伝説は、FNが帰国する前、すなわち、戦場に到着した翌年から、すでに始まっていた。クリミアの天使の歌がいくつも流行し、記念のグッズがあふれた。船にFNの名前がつけられ、数えきれないほどの手紙が届いた。箱入り便箋の上部に、北の館が描かれ、南の館を訪れる人もいた。

王家が主催したFNを称える講演会(1855.11.2)は、息ができないほどの人だかり。ハーバード卿は、FNの影にキスした兵士の手紙を読んだ。ナイチンゲール家は、感激に耐えられないとして出席しなかった。その日、ファニーがバーリントンホテルで主催したパーティは、貴族や有名人で賑わった。ファニーは大喜びで、この「栄光の集い(glorious meeting)」をクリミアで働いていたFNに報告した。

女王は夫のプリンスがデザインしたプローチを贈呈した。表はダイアモンドに囲まれた十字架と文字 “Blessed are the merciful”が刻まれ、裏には ”To Miss Florence Nightingale, as a mark of esteem and gratitude for her devotion towards the Queen’s brave soldiers from Victoria R. 1855” と刻まれている。

クリミアの天使の伝説は世界に広がり、FNが帰国した頃、最高潮に達した。これらの賞賛・人気・印刷物・宝石などに、FNの心は動かなかった。嵐のように届いた手紙の山、街では様々なギフトや詩やソングがあふれた。礼状は姉の役割となった。寄付された巨額のお金は 「ナイチンゲール資金」 として残された。

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