フローレンス・ナイチンゲール
生誕200年記念

愛に支えられた
生涯偉業

教育心理学博士久間圭子

目次

※はしがき、あらまし、他の内容は全て選択して読めます。

第I部 クリミアへの長い道のり

第1章 生立ちと少女時代

美しい自然と大家族の中で

フローレンス・ナイチンゲール(FN)は、ナポレオン戦争(1803-15)が終わり、ヨーロッパに一時的な平和が戻った時代に誕生(1820.5.12)した。父(WEN)と母(Funny)は、イギリスの貴族で、旧知の間柄だった。ファニーは、熱愛した人が貧しく家族に反対され、六歳年下のWENと結婚。二人は新婚旅行で訪れたイタリアに3年間滞在し、一歳年上の姉(Parthe)はナポリで、FNはフローレンスで生まれた。

北部にあった伯父の領地を相続したWENは、広大な自然を眺望する館を新築し、家族はそこで生活した。この地はロンドンから遠く、親族や客を迎えるために不便であった。ファニーの強い要望で、ロンドンに近い南部に新たな館を購入した。こうしてナイチンゲール家は、夏は北の館へ、冬は南の館へ、社交シーズンはロンドンのホテルへ、と移動する生活を送ることになった。

貴族の広大な館は、親戚や知人が集い宿泊するホテルの役割がある。大勢の子どもたちがトリーハウスで遊んだある日、死んだ小鳥を見つけて皆で墓を作った。そのとき、FNが作った詩が残っている。

Tomtitty bird! Why art thou dead
Thou who dost bear upon thy head
A crown! But now thou art on thy death bed,
My Tom Tit.

翌年子どもたちは、ナイチンゲール家で蛾の収集をし、夏は女王の別荘があるWright島で水泳や船遊び、クリスマスには演劇会を企画して練習した。

*  *  *  *

ロンドンの有名な政治家・貴族の娘だったファニーは、飛びぬけた美人で、社交界にふさわしい明るい性格だった。母方は五人の女子と五人の男子、義理の兄弟・姉妹、彼らの子どもたちを含む大家族で、親密な交流は孫の代まで続いている。

北部の貴族だった父の妹(Mei)が、ファニーの弟(Sam Smith)と結婚した。男子が生まれなかったナイチンゲール家を相続する長男(Shore)が生まれてから、両家は家族のような親しい間柄となった。メイはFNの最大の理解者となり、惜しみない支援者となった。

社交界をこよなく愛した母ファニーは、父WENを田舎紳士に育てたかった。しかし、最初の選挙で落選したWENは、趣味の建築やアウトドアを楽しみ、娘たちに語学・古典・歴史などを教えるチューターとなった。教養科目は父が教え、女性の家庭教師は美術や音楽を担当した。

家族はWENがデザインした巨大な馬車で、北の館(Lea Hurst)と南の館(Embley Park)を移動し、社交シーズンはロンドンのホテルで生活した。馬車は日々の外出やヨーロッパへの旅にも利用された。フランスとイタリアは、両親が社交界を楽しみ、娘たちが音楽や美術、外国語を学び、社交界にふさわしい教養を身につける絶好の場所だった。FNはオペラに熱中し、歌が上手だったという。

夢のようなヨーロッパへの旅路

FNが16歳、姉17歳になると、多くの宿泊客を迎えるため、ロンドンに近い南の館を増築することになった。終了するまで、一家はヨーロッパに長期滞在する計画を立てた。その年(1837年)の2月7日に、FNが神の声を聞いた。プライベート・ノートに‘God spoke to me and called me to His service’ と記録されている。

FNはこの出来事を心の奥に秘めて、誰にも話さなかった。神が告げたミッションは漠然で、FNが何かを考え始めたのは、ヨーロッパの旅を終えてからだった。FNが神の声を聴いてから4カ月後の6月に、ヴィクトリア女王が即位した。

同年の9月に一家は馬車でヨーロッパに向けて出発した。家族4人の他、旅の案内人、ファニーのメイド、姉妹のナースだけの旅だった。海峡を渡り翌日はフランスの港に到着し、フランスとイタリアを通って目的地にむかった。晴天に恵まれ、夜は美しい星空の下に教会のある村々を眺めた。イタリアでは、昔新婚旅行で泊まったホテルの人たちが一家を歓迎してくれた。

FNは毎日旅の経験を詳細に書いた手紙を送っている。ロマンチックな旅の中で、FNはナポレオン戦争で戦った兵士や、破壊された村の人々に出会い、戦争の恐ろしさや人々の心の傷を述べている。それから10年後エジプトの旅でも、FNは戦場で無数の兵士の死骸を見た経験を記している。

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第2章 社交界の成功とミッションの間で

社交界での出会い

ヨーロッパの長期滞在は、スイスに始まり、フランスからイタリアへ移動した。自由な雰囲気に満ちたイタリア・フローレンス市の社交界は、知的な会話の場として知られていた。FNは家族と一緒に多くの知名人に出会い、華やかな舞踏会では若人たちとの出会いがあった。ほっそりと優雅な姿と、古典的な知識の会話で注目が集まり、母ファニーの期待が高まった。

最も重要な出来事は、ヨーロッパ社交界の中心だった人物(Mary Clarke)が、ナイチンゲール家を迎え賞賛したことだった。ファニーは、この人物を通して、多くの有名人と知り合い、彼らが集う華やかな社交界のホステスを務められると考えた。

一方、FNはメリー・クラークが、名だたる男性をパートナーとして、毎日のように食事や談話を楽しみ、社交界では多数の有名人と交流していることに注目した。女性が活躍するためには、男性の協力が欠かせないことに気づいた瞬間と思われる。クラークは特にFNがお気に入り、あらゆる機会をとらえて知名人に紹介した。後にFNは、次々に彼らのサポートを得ることになる。

この2年近いヨーロッパの長期滞在を終えてから、FNは神が告げたミッションが何かを考えるようになった。この頃から、自らの社交界の成功、結婚を望む家族とミッションの追求など、心の葛藤が激しくなっていく。

農業社会から工業社会へ、時代の一大転換期は戦争の時代でもあった。戦場では多くの兵士が感染病で亡くなった。細菌さえ発見されなかった医学の黎明期に、FNは人々の健康と福祉のために生きる決心をした。ヨーロッパの旅は、多感な少女だったFNが経験した「クリミアへの長い道のり」の前奏曲だったと言えよう。

ヨーロッパの長期滞在を終えて

ヨーロッパの旅を終えてロンドンへ帰ったのは1839年4月、FN19歳の誕生日が近い社交シーズンだった。館の改築が未完成のため、一家はしばらくロンドンのホテルに滞在した。ナイチンゲール姉妹は、母方ニコルソン家のいとこ達とパーティや舞踏会に夢中だった。社交シーズンが終ってから、ナイチンゲール一家は北の館に移動した。その夏、従兄のヘンリー・ニコルソンが、北の館に滞在しFNと一緒に数学を勉強した。

翌年一月にヴィクトリア女王の結婚式があり、ロンドンは祝賀ムードで賑わった。FNはロンドンのホテルに滞在し、社交界で出会った女王を祝福した。数年後(1942)にイギリスで飢餓が広まり、北の館に滞在中のFN(22歳)は、母と一緒に近くの村の貧民に食料や物資を届けた。この経験から、FNは貧民や病人を助けることを考えるようになった。

その年の秋、FNは南の館に宿泊した賓客(C. Bunsen)に、貧民を救うため何ができるかを聞いた。バンセン氏はドイツのカイゼルスベルトで、ナースの教育をしている牧師夫妻の話をした。新装した館ではパーティが続き、FNはその話をしばらく忘れていた。 

翌年の冬、ヘンリー・ニコルソンがFNに結婚を求めた。その後も更なる社交界の成功、名だたる男性の出会いがありFNの心は揺れた。

家族・親戚・貧民のケア

FNは若い時から大家族や親せきの病人のケアをしている。子どもが大好きで、年老いた乳母と祖母の看取りも行った。こうした経験の中で、FNは自然の力が病気を癒ことに気づいたと思われる。

乳幼児のケア:母の反対を押切って、初めて看護したのは、出産で命を亡くした友人の赤ちゃんだった。また、FNが14歳の時に生まれた叔母・メイの息子(Shore)をわが子のように可愛がった。はしかを患い弱りきったショアーは、FNの館で一か月間静養した。

死への看護:父方の祖母や親しかった乳母の死の看取りを、後に年老いた両親と姉の病気や死に深く関わった。

貧民のケア:ヨーロッパから帰国後は、母と一緒に北の館に近い村の貧民を訪れている。ここでも困難な出産や、二回の死の看取りを経験した。地域に感染症が広がったときは、ボランティアとして働いた。

ミッションの挫折と苦悩の中で

FNが自分のミッションを看護であると意識したのは24歳のときだった。それまで行った赤ちゃんのケアや、乳母・祖母の看取りの経験から、知識と技術が重要なことに気づき、ひそかに病院で学ぶ決心をする。当時の病院は不潔で悪臭が漂よい、患者もナースもアルコール依存症で道徳に欠けていた。

家族にとって最大のショックは、旧知の友人・サリスベリー病院長夫妻が館を訪れた際に、FN(26歳)が病院で働きたい意志を伝えたときだった。この案は完全に葬られたが、FNはあきらめなかった。叔母メイの協力で母ファニーを説得して、ひそかに続けていた数学の勉強を基礎に、専門家から統計学を学んだ。

FNは当時珍しかった病院の年間報告書(blue book)を入手し分析した。その後、機会あるたびに、広くイギリスとヨーロッパの病院見学と資料の収集・分析を行った。この活動はクリミア戦争の後も続き、FNはヨーロッパにおける病院統計の第一人者となった。

統計学を学び研究を始めた頃、バンセン氏からカイゼルスベルト学校の年鑑が届いた。年鑑はFNの宝となり、後に学校の訪問と入学が実現する。

春の社交シーズンは、ロンドンのホテルでファニーがしばしば朝食会や夕食会を開いた。FN(27歳)が家族と一緒に、ロンドンで開催された天文学の学会に出席したとき、FNの熱愛者(Richard M. Milines)が一緒だった。

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第3章 クリミアへの道が開ける

ローマへの旅と運命の出会い

ひそかに計画した病院の看護経験が挫折したFNは、統計学に熱中するようになった。また館の責任者である母・ファニーを助けて、食器やリネン、ジャムなどの保存食品まで、館の物品管理において優れた才能を発揮した。しかし、看護の目標を失ったFNは、極度なうつ状態や現実逃避に襲われた。

そんなFNを、信奉者(Selina Bracebridge)がヨーロッパに招待した。初めて家族を離れた自由な旅は、FN(27歳)にとって人生最高の忘れえない思い出となった。

FNはローマの全ての道と曲がり角、全てのビルの詳細まで、半世紀を経ても鮮明に記憶していた。ミケランジェロが、教会(Sistene Chapel)の天井に描いた絵に感動し、天国にいるようだったと言う。ローマの虜となったFNは、そこで迎えたニューイヤーズ・パーティで、翌朝まで踊り続けた。

ローマ滞在中に、FNはセリーナの親友で高貴な身分の美しい女性(Liz a Court)に紹介された。リズは、FNにとって運命の人となった夫(Sidney Herbert)と、新婚旅行でローマに滞在していた。FNとリズは意気投合し、生涯の友となった。

FNは自然の力による病気の回復過程や、自分のミッションをハーバート卿に打明けた。二人は自然を散策しながら何日も語り合った。彼はFNの古典的教養はもちろん、病院統計の知識に驚き、カイゼルスベルト校入学に賛同した。

このローマ滞在中に、FNはカトリック会の祝福を受け、教会で出会った天使のような孤児を通して、マードレ(Madre Santa Columbia)と親しくなった。ローマ滞在の最後の2か月間、FNは毎日修道院を訪れ、マードレからカトリックの教えを受けた。孤児はFNが資金を出して、教会のすぐれたた幼児教育を受けることとなった。

エジプト・ギリシャの旅、カイゼルスベルト学校の見学

FNはローマの自由を満喫し、最高に幸せな半年を終えて帰国(1848.4)した。その年は親族の結婚式が多く、ハーバート夫妻と家族ぐるみの交流も忙しかった。母ファニーは、上級貴族であるハーバート家との交流を喜んだが、カイゼルスベルト学校への入学は許さなかった。

再び希望を失い気が狂いそうになったFNに、再度救いの手が述べられた。セリーナが、今度はエジプト・ギリシャの旅へ招待したのである。夫妻とFNの一行は、エジプト・ナイルに行き、船旅でギリシャ・アテネに移動した。心の葛藤が続いたFNを癒したのは、一緒に旅行したペットたち。ナイルでカメリオン、ギリシャでは亀(Mr.&Mrs. Hill)とせみ(Plato)、他にアテネで悪童から救ったベビーふくろう(athena)と旅を共にした。

FNはドイツで夫妻と別れ、ベルリンに滞在して病院や慈善団体を訪問した。その後で、付添いの女中に夫妻の家で待機してもらい、一人でカイゼルスベルト学校に2週間滞在した(1850.7.31-8.13)。見学を終えたFNは、自信を取戻し、活力にあふれ、「前途を妨げる何物もなし(nothing ever vex me again)」との思いで帰国の途についた。

帰国してからも大好きなアセナは、いつもFNのポケットの中だった。FNに似て勝気で、ある日せみのプラトーを食べてしまった。それから4年後、FNがクリミアに出発予定の前夜、アセナは忙しさの中で命を落とす運命となる。FNはアセナの死を悼んで、出発を二日ほど遅らせたという。

カイゼルスベルト校への入学と更なる試練

FNの家族にとって、カイゼルスベルト校は禁句だった。FNは自分の不在によって精神状態が悪化した姉と半年間(1850.9-1851.3)生活を共にした。その頃、求婚者だった従兄(Henry Nicholson)がスペインで水泳中に事故死、9年間もFNを待ち続けた愛人(Richard Milines)の心も変わっていた。FNはカイゼルスベルト校入学を決意した。

家族以外に極秘の中、FN(31歳)は母と姉に付添われてドイツに渡り、カイゼルスベルト校に入学(1851.7月~同年10月)した。当時のカイゼルスベルトは、100床の病院、保育院、監獄、孤児院、教員の養成学校で構成され、スタッフは116人の女性執事(キリスト教・プロテスタント)であった。

カイゼルスベルト校の始まりは、刑を終えた囚人一人を泊める施設だった。すなわち、初期の目的は、社会復帰を助けるために必要な精神修養の場所であった。それから20年を経て、多くの病床を持つ病院と、そこで働く女性を養成する学校が併設された。学校は看護の専門職の養成とは違い、精神修養を中心とした教育であった。

規則正しい日課で、毎日の食事、服装、洗濯と掃除まで、自分で行う生活はFNにとって厳しい訓練だった。カイゼルスベルトにおける精神訓練は、FNに深い印象を与えたが、専門職としての看護教育は全くなかった(‘The nursing there was nil.’)という。

「衛生状態はひどかった。(組織の部署の中で)病院は最悪だった。しかし、私が経験したことのない高尚かつ純粋な献身があった。何事もおろそかにしない。驚いたことは、女性執事たちは田舎の農民出身なのです(p91)。」

厳しい訓練を経て、最優秀の成績で卒業したFNを心から祝福してくれたのはハーバート夫妻だった。FNを迎えるためドイツへきた母と姉は、FNを出獄したばかりの「罪人のように扱い」、一切話しを聞こうとしなかった。帰宅してから、FNはロンドンのすぐれた病院で看護の訓練を受けたいと考えたが、家族は全く受け入れなかった。

FNが追求した看護の精神性

カイゼルスベルトの教育を終えてから数年間は、FNにとって最も苦しい期間だった。カトリック尼僧による看護が高く評価されていたことを考え、FNはカトリック教に深い関心を持っていた。カイゼルスベルト校入学前に、すなわち、家族から離れてローマに長期滞在をした最後の2カ月間、FNは毎日修道院を訪れてマードレに学んでいる。

その後、カイゼルスベルト校に入学して、看護の精神性を培うために信仰が如何に重要かを学んだと思われる。早朝から就寝までの厳しい訓練の中で、身体的・精神的健康を取戻したFNは、母に次のような手紙を送っている。

これが生きること。今こそ、生きて生を愛するとは何かがわかった、命を亡くすことは後悔すべきです・・・‘This is life. Now I know what it is to live and love life, and really I should be sorry now to leave life…’ (p90)

卒業後、FNは知人でカトリック教の司祭(Cardinal H.E.Manning)と交流し、カトリック教について語り合い、彼の計らいで、イギリスやヨーロッパでカトリックの病院を訪問した。その後、アイルランドのカトリック教病院を訪問した時の出来事によって、FNはカトリック教や、特定の宗教を否定するようになった。 

カイゼルスベルト校を終えてから3年近い間、FNは多くの病院を訪問し、病院統計の研究に打ち込んだ。また、宗教を深く研究して、自ら経験した精神的苦痛を述べる小説『Casandra』を執筆している。ナイチンゲール家は、イギリスの国教を信仰しながら、宗教の違いを超える「ユニタリアン」の伝統があった。この宗教観は、クリミアの看護を始め、FNが関わった看護と看護教育における一貫した姿勢である。

婦人病院の監督として

職業としての看護を追求できないまま、宗教をめぐる心の葛藤が続いた頃、ハーバート夫人の声かけがあった。FN(33歳)は婦人病院の監督に推薦され、条件をクリアし、初めての看護実践が始まった。患者は家庭教師の女性などで、病名は癌や精神を病むキリスト教徒が多かった。FNは8月の就任前から、詳細な改革案を作成して準備を始めた。

清潔なリネンやキッチンなど看護の基本なもちろん、ベルの設置や食事を運ぶエレベーター、短期入院など、当時は革命的な考え方だった。FNは、病院の二つの委員会の対立と、医師間の対立を見事にかわし、業者の競争による出費の節約など、改革を妨げるシステムにも切込んだ。夜も昼も休まずに看護に当たるFNの姿に、患者や家族から感謝の手紙が殺到した。

ロンドンの大病院で有名な医師は、婦人病院における改革を高く評価し、大学病院における新しい看護教育を望んだ。ハーバート卿は、病院における改革の必要性を痛感し、FNに最新のデータを求めた。FNのミッションは、看護を通してナースの貢献を社会に示し、ひいては職業としての看護を確立することだった。

FNが婦人病院の仕事を始めた年の秋に、クリミア戦争(1853.10-1856.2)が勃発した。翌年の春、イギリスがフランスと共に参戦(1854.3)し、ロシア軍と戦うことになる。FNにとって「クリミアの天使」への道が開いた瞬間であった。

追記・FNのミッションを応援した人々

ここでは、クリミア戦争看護の実現に直接影響した協力者を紹介しよう。

◎Christian Carl Josias Von Bunsen(1791-1860)

プルシャの大富豪・理論家、古語・東洋語の学者。ローマの外交官(1817)となり、イギリスの教養人と交流を開始。1842年大使になってから、ナイチンゲール家を訪れFN(22歳)と親しく会話した。FNのミッションを聞いて感動し、カイゼルスベルト学校を紹介しフォローしている。

◎Selina Bracebridge(1800-1874)

ヨーロッパに長期滞在中に、ナイチンゲール一家が出会った有力者・Mary Clarkeyを通してローマで出会う。セリーナは家族の反対で落ち込んでいたFNをヨーロッパに招待した。その後も、エジプト・ギリシャの旅に同伴し、カイゼルスベルト校の見学を実現した。セリーナは夫と共にクリミア戦争に同伴し、後にナイチンゲール基金の運営に協力した。

◎Herbert Sidney(1810-1861)

唯緒ある伯爵家の11代目だった父の後継者。FNは1847年にローマで、セリーナの計らいで新婚旅行中の夫妻に会う。政治家で後に陸軍大臣となったハーバート卿は、FNの病院の知識や衛生思想に感動し、カイゼルスベルト校へ入学に賛同した。

夫妻はカイゼルスベルトを訪れ、FNの卒業を祝福した。夫人の紹介で、FNはロンドンの婦人病院の監督となり、実践への道が開いた。ハーバート卿は、クリミア戦争では陸軍大臣として看護団の派遣に、戦争が終わってからは陸軍病院の組織改革に協力した。

バッキンガム宮殿に近いクリミア戦争記念碑の両側に並ぶ巨大な銅像が、二人の友情と功績を称えている。

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