第III部 ライフワークとした世界の衛生改革
クリミア戦争後におけるFNのミッションは、大きく前期と後期に分かれる。前期はクリミア戦争直後から、ハーバート卿の死までの5年間(1856.8−1861.8);後期はハーバート卿の死から、ヴィクトリア女王の死までの40年間(1861.9−1901.1)である。
前期の5年間は、軍の組織改革が中心となる。組織改革は国家の革命に等しい困難きわまる仕事だった。FNの役割は大臣を説得し、続く委員会の設置と運営、改革の必要性を示す書類の作成など膨大であった。実質上の委員長となったFNは、一日22時間を費やす日もあったと言う。
軍の組織改革を進めていたFNは、学会(the Social Science Congress)で、二つの論文を発表(1858.10)した。翌年、論文を拡大した二冊の著書、『病院覚え書』と『看護覚え書』が出版され、ベストセラーとなった。世界の注目を集めた著書の内容は、ライフワークとなったFN衛生改革の基本である。
第6章 軍の組織改革
クリミアで地獄を経験したFNは、兵士たちの死は弾丸よりも、劣悪な環境における感染病であり、改善を妨げている原因は、軍の組織にあると確信した。クリミアの墓の下から聞こえる’子どもたち‘の声に答えるべく、FNは自らの疲労と病気の中で、軍の組織改革という困難極まる仕事を一日も早く実現したかった。
思えば、クリミアへの道のりは長く、協力した人は数えきれない。FNは物静かで、すらりと背が高く、思慮深く美しい姿は、会う人々を魅了した。南の館を訪れた貴族や名士、ロンドンやヨーロッパで会った要人たちは、若いFNのミッションに耳を傾け協力を惜しまなかった。
しかし、クリミア戦争を忘れたい雰囲気の中で、組織改革の協力者を探すことは不可能だった。ハーバート卿は、クリミア戦争の苦い経験から興味を示さなかった。それでも希望を捨てないFNは、改革の必要性を示すデータの収集と統計学によるデータの分析を続けた。
統計学を武器にして
こうしてFNは、クリミアの天使の名声によそに、帰国直後から軍部の組織改革に着手した。不可能と考えられる改革は、統計学による‘facts & figures’を武器にすれば可能であると考えたのである。統計学の草分けだった統計学者(Dr. Farr)に、統計分析のアイデアを相談した時のエピソードがある。
「そんなことをしたら、彼らの敵になってしまうよ」
ファー博士が答えると、FNが毅然と応酬した。
「あれ(クリミアの地獄)を見た私は、自分の弾丸を発射できるわ」
まだ少女だった娘(Mary)が聞いた二人の会話である。回想によると、FNは黒いシルクのドレスとショールを身につけ、エレガントな姿で馬車から降りた。長身の物静かで美しいFNにメアリーは魅了されたという。
ヴィクトリア女王の登場
戦場の疲れと病気の中、軍のシステム改革で苦しむFNの前に現れたのがヴィクトリア女王だった。バルモラル宮殿に近い地域(Birk Hall)に住む友人(Sir James Clark)から、女王がFNに会って、クリミアの経験をすべて聞きたいという知らせが届いた。FNはこの機会を逃すまいと周到な準備を始めた。
FNの目標は、�〔別�な調査をする委員会 ’Royal Commission’ の設置、��担当大臣(Lord Panmure)に会い秘密情報を上申することだった。
女王夫妻との初会見は、9月21日バルモラル宮殿で2時間に及んだ。正確かつ細部に渡る情報を求めたプリンスは、FNの報告に感銘し改革の必要性を確信した。プリンスは、「とても謙虚な(extremely modest)」FNの人柄を喜び、女王は、「軍部に所属してほしい(I wish we had her in the War Office)」と最高司令官(Duke Cambridge)に伝えたという。
後に改革の中心となったFNのオフイスは、‘a little War Office’ と呼ばれ、FNは実質上の委員長として采配をふるった。
バルモラル宮殿における会見は何回か続き、打解けた会話や会食があった。その後も、女王は馬車に乗って一人でFNを訪れ、二人は散歩しながら長い間語り合った。FNに「魅了された」女王は、再度FNを訪れて、お茶を一緒にして語り合ったという。女王を味方とするFNの作戦は見事に勝利した。
担当大臣を説得
女王は進言できるが実務はできない。委員会の設置は、大臣の正式な要請が必要であった。FNはニックネームがバイソン(野牛)という曲者の大臣(Panmure)を説得する必要があった。女王の提案で、FNはバルモラル宮殿でバイソンに会うことになった。
会見は10月5日に行われた。FNに会ったバイソンは、「チャーミングで、高度な教育を受けた博愛者」と考えた。FNに魅了されたバイソンは、女王と同じように、宮殿に近い滞在先でFNを私的に訪問して語り合った。その後、ロンドンで二人の会合が進められた。
FNは友人(Sir James Clark)のアドバイスに従い、バイソンに諮問委員会(Royal commission)設立の必要性を、データを使って明確に伝えた。二人の会合は3時間に及び、バイソンは軍の組織改革を進める委員会の設立を了解した。FNが十数年かけて収集したデータの統計学的分析と、個人的な魅力が貢献したと思われる。
しかし、軍の強力な反対を受けて委員会の設置は難航した(1856.9−1857.5)。その頃、軍の病院建築が進められていた。バイソンの好意でFNは建築の企画書を手にして、現場を訪問することができた。FNは訪問する前から、クリミアの経験とデータに基づき、自然の法則を無視する病院のデザインは、病気の快復どころか、悪化すると考え中止を求めていた。
データをもとにFNが提案した病院のデザインは、関係者を説得したが、政府は建築のプランを変えなかった。この出来事をきっかけに、FNは病院建築と運営の権威として、ヨーロッパはもちろん、世界的に有名になった。当時はヨーロッパでも急速な都市化によって、時代にふさわしい病院の建築が求められていた。FNとの会見を求めて、世界の女王や国王、専門家がロンドンのオフイスを訪れた。
ハーバート卿の病死と残された仕事
実質上の委員長として、FNは委員の選出や、委員会に提出する書類の作成などの実務を担当した。しかし、委員長は女性でクリミアの天使となったFNは出来ない。委員長にふさわしい顔役の適任者は、ハーバート卿だけだった。
上級貴族で政治家だったハーバート卿との出会いは、FN(27歳)が信奉者(Selina)に招待されてローマに滞在したときだった。その後、私的な会合を重ね、FNは自分のミッションの内容と、家族との対立など長い経緯を話している。
彼の理解を得てから、家族の反対が弱まり、FNはカイゼルベルト学校に入学できた。その後も、ハーバート卿夫妻の協力でロンドンの婦人病院の監督を務め、クリミア戦争への道が開け、国民から「クリミアの天使」という名声を得たのである。
結果から言うと、ハーバート卿を委員長とする委員会が組織され、軍部の強力な反対と戦いながら軍の組織改革は前進した。ところが最終段階で、政権交代やハーバート卿の死(1861.8)によって組織改革は頓挫してしまった。
FNは陸軍大臣だったハーバート卿を通して、政府の内部に入ることができた。バーリントン・ホテルをオフイスとして、FNは軍部や政界の要人を始め、外国から多くの賓客を迎えた。最も頻繁にFNを訪れた人はハーバート卿であった。
ハーバート卿の死後、ホテルへ歩いてくる姿が目に浮かび、悲しみが一層深まった。回想録を書き終えたFNは、‘Little War Office’と呼ばれたバーリントンを永遠に去った。
FNの死後、バッキンガム宮殿に近い街路の一角に、巨大な「クリミア記念碑」が建立された。勝利の女神の両側に立つFNとハーバート卿の巨大な銅像は、二人の偉大な功績を称える証である。
第7章 統計学・病院建築・衛生改革の権威として
統計学によるデータ分析と著書の執筆
委員会に提出する書類の作成のために、FNは病気と闘いながら一日22時間働く日もあった。完成した直後にFNは過労で倒れ、生涯に渡って病弱(invalid)となり、ソファーに横になって仕事をするようになったという。
FNのライフワークとなった衛生改革の基礎は、前期に執筆した“Note on …”で始まる3冊の著書に伺うことができる。この中で最も重要な著書は、最初に執筆した“Notes on Matters affecting the Health, Efficiency and Hospital Administration of the British Army(1857)”である。翌年FNは学会(Social Science Congress)で発表し、統計学会(the Statistical Society of 1860)の会員となった。
この書は1000ページの大作で、クリミア戦争の経験はもちろん、FNが過去十数年間、無数の病院と施設を訪れ、収集したデータを分析した報告書に基づいて書かれた。調査した病院は、英、仏、独、伊の首都と地方病院、ベルギー、トルコの首都、英・仏・他の陸軍・海軍病院、独・仏のキリスト教病院など数えきれないほどであった。
ハーバート卿の病気の悪化と自分の体調が最悪の中で出版された『病院覚え書(Notes on Hospitals)』と『看護覚え書(Notes on Nursing)』は、どちらもベストセラーとなった。
『病院覚え書』は、学会で発表した病院建築の内容を本にしたもので、入院者の死亡率が圧倒的に高い理由と、必要な衛生改革について述べている。『病院覚え書』は高く評価され、FNは病院建築と衛生改革の第一人者として、イギリスを始め世界の病院建築のコンサルタントとなった。
『看護覚え書』は、家族の健康の鍵を握る女性を喚起させる、新鮮でチャーミングな本だ。歯切れのよい文章、ユーモアたっぷりのエピソードなど、ハーバート卿は「小説よりも面白い‘more interesting than a novel’」とエールを送った。
第8章 世界に拡大した衛生改革
悲しみを越えて
ハーバード卿の死は、最愛の夫を失った妻の深い悲しみに等しかった。FNが行った最初の仕事は、回想録の執筆だった。それは、病状が悪化する中、死の直前まで協力してくれた人に対する敬意と賛辞である。この本を完成した後、FNは「戦争オフイス」と呼ばれたバーリントンを永遠に去った。
同じ年の11月に、FNのために心身を砕いたクローが、12月に女王の夫アルバートが亡くなった。次々に同胞を失ったFNは、自分の人生は終わったと考え、郊外の借家に一人で隠遁した。しかし、同年の春に始まっていたアメリカの独立戦争(1861-1865)や、英国軍の中国とカナダ遠征など、軍部はFNの助けを求めた。
FNが考えた健康の法則=看護の法則は、病気のときも健康なときも自然の法則を敬う生活が基礎となる。軍部へのアドバイスは、新鮮な空気と水、清潔な住まい、清潔な衣服と身体、おいしい食事など看護の基本はもちろん、物資や兵士の輸送まで、すべて受け入れられた。南北戦争へのアドバイスでは、アメリカから深い感謝のことばがあった。
また植民地・インドにおける英国軍の衛生改革は、ハーバート卿の没後も晩年まで続いた。インドにおける英国軍の衛生改革は、主権を取り戻したインドの人々に継承され、「衛生改革は、西洋文明がもたらした最大の祝福」とされた。
戦争看護の象徴として
クリミア戦争(1853-56)は、複数の国家が参加した最初の大戦だった。同様な戦争が三年後にイタリアで起こった。ソリフェリーノ(1859.5)の戦いでは、およそ30万人の兵士が戦い、死者は最終的に2万人を超えたとされる。
この戦争を目撃したスイス人(Jean Henri Dunant)は、「ソリフェリーノの思い出」を出版した。その後、デュナンの献身的な活動によって、戦地の負傷者を保護するジュネーブ条約(赤十字条約)が締結(1864.8)された。後にロンドンで行った講演(1972)の中で、デュナンはFNの功績を称えている。
この条約の栄誉は(私ではなく)一人の英国人女性のものです。私が1859年にイタリアの戦争に出向いたのは、クリミア戦争におけるフローレンス・ナイチンゲールの仕事に感動したからです(p510)。
FNが生きた世紀(1800-1900)は、戦争が世界的に拡大し激しくなった時代である。この100年間に、英国軍はクリミア戦争以前に16回、以後は18回の戦争・紛争に関わっている。「クリミアの天使」に加え、赤十字の象徴となったFNは、二大戦争(クリミア戦争とソリフェリーノの戦い)の後も、世界の戦争における衛生改革に貢献している。
FNの戦争看護が最高潮を迎えたのは、英国軍が1884年エジプトに遠征部隊(the Gorden Relief Expedition)派遣において、政府が女性看護団を要請したときだった。FN(64歳)は監督を指名し、グループの仕事を指導し、遠征は見事に成功した。この陰には、FNが提出したレポートを女王が読み、賛同して政府を動かした事実がある。
一般病院の衛生改革と訪問看護の普及
FNが一般病院の改革と訪問看護(district nursing)を行うナースの養成に本格的に取組んだのは、ハーバート卿が亡くなってからである。始まりは1861年に、イギリス北西部の都市・リバプールの実業家(William Rathbone)から、一通の手紙を受取ったときだった。
リバプールの船舶保有者で裕福な商家の六代目・ラスボーン氏は、敬虔なクェーカー教徒で慈善家だった。彼はクリミア戦争後(1859)、自分が住む地域で一人のナースによる訪問看護を始めた。ラスボーン氏は手紙の中で、「看護の訓練を受け、責任感があり、信頼できるナース」が必要であるが、そのようなナースは見つからなかったと協力を懇願した。
FNは少女の頃から、北の館に近い村で貧民を訪問した経験があり、協力したいと考えた。最善の策は、リバプールの療養所(Royal Liverpool Infirmary)におけるナースの養成だった。翌年、ラスボーン氏の資金で学校が開校され、見事に成功した。
ラスボーン氏は貧民街に住む人々にも、訪問看護を実現したいと考えた。それには、貧民病院(Liverpool Workhouse Infirmary)におけるナースの養成が必要だった。ラスボーン氏は再びFNに相談した。
貧民政策は多大な予算を必要とするため、役人との交渉から始まった。予算を得るためには、貧民救済法の改正が必要だった。それは、軍の組織改革と同じく厳しい「ゲリラ戦」となり、一進一退の状態が続いた。開校を実現してからもFNは、推薦した教育者と病院側の役人との対立、指導者の苦悩や退職や死まで対処しなければならなかった。
結果から言えば、FNの奮闘によって貧民救済法(poor law)は改正された。法律によって、時代が必要とした一般病院の衛生改革と訪問看護は英国に普及し、次第に世界へ広まった。改革の中心者で常にFNのアドバイスを求めたラスボーン氏は、「私のPopeであり不屈の人」とFNを高く評価している。
FNとラスボーン氏は生涯の友となり、英国の訪問看護を推進した。FNが住むサウスストリートに作られた花台には、ラスボーン氏が亡くなるまで送った新鮮な花が飾られた。
第9章 看護教育への貢献
聖トーマス病院との関わり
政府の要請による軍の衛生改革から退いた頃、FN(1872年・52歳)は聖トーマス病院の患者として余生と送りたいと考えた。ハーバート卿の没後、腹心の友となった哲学者(Jowell)に相談した所、断固として反対された。FNと聖トーマス病院との親密な関係は、二冊の「覚え書」の書が出版された年(1859)の春に遡る。
鉄道会社(The South Eastern railway)が企画した地下鉄の路線が、病院の土地を必要とした。このとき病院を他の場所に移動するかどうか、売却の値段など大論争となった。病院から相談されたFNは、病院統計で分析した結果と、王室の応援を得て、見事に解決に導いた。新しい病院への移転において、FNは建築から設備まで詳細に指導している。
例えば病院の床だけでも、FNは資材と仕上げ、メンテナンスまで、医師・建築家・マトロン・製造業者に100通ほど手紙を書いている。風呂と洗面台の陶器について、製造者はFNの希望によって製造することに同意した。
聖トーマス病院における看護教育
FNは英国軍と社会の衛生改革に忙殺され、聖トーマス病院の看護教育に本格的に関わったのは、病院が新築されてからだった。ナイチンゲール・ナースは、すでに、イギリスの多くの病院で指導者となっていた。FNが看護教育の改革を決心したのは、必要とされたナースの数が急増する中で、FNが求める指導者が養成されていなかったからだ。
新しい病院が軌道に乗った1872年の春、FNは同病院における看護教育の調査を始めた。カリキュラムを調べ、ナースと見習い生に質問し、学生のレポートを読み、医師に質問した。その結果、学校の組織改革の必要性が明らかになり、FNは看護教育に関わる決心をした。
ところが仕事を開始して間もなく、FNは年老いて病身の両親(父77歳、母83歳)を援助するため、帰宅を余儀なくされた。その日から、父の死(1874年)と母の死(1880年)まで、二つの館とロンドンの住いを往復して、聖トーマス病院の看護教育に尽力した。
家族が与えた試練は、クリミアの地獄の経験よりも、一日22時間も続いた戦争オフイスの仕事よりも、過酷だったという。この苦しみの中で、FNは過去に親交した二人の聖者:ローマで(1847・Mardre Santa Colomba )と、クリミアで(1854-56・Rev. Mother Bermondsey):からの学びと、古典の読書を続けて神と信仰の研究を深めた。
この間、哲学者(Jowell)と親密に交流し、論考や本を執筆している。FNが主張する看護教育における精神性は、こうしたFNの経験が背景にあると思われる。
女性団体や看護協会との対立
FNは当時台頭した女性の権利を主張する団体と距離を置き、看護教育とナースの資格をめぐって看護協会と激しく対立した。思えばFNの人生は、反対派との対立が絶えなかった。最初は家族、次はクリミアで医師・宗教団体、組織改革では軍部と政治家、病院の衛生改革では貧民病院の役人と政治家等々だった。英国看護協会との対立(1886-1893)は、FN(66歳-73歳)の「最後で最大の闘い(last great battle)」となった。
ナイチンゲール・ナースは、英国だけでなく、インド、セイロン、ドイツ、スエーデン、U.S.A.で活躍していた。訪問看護においても、FNの影響は英国全土に及んだ。では、なぜ対立が起こったのか、どんな対立だったのか。
工業革命がもたらした戦争と都市化によって、病人を収容する施設と訓練されたナースの要求が急増した。病院側は第三機関によるナースの量と質の保証を求めた。しかし、看護教育が未熟な時代、どう保証するかは難しい問題であった。委員会が設置されたが、意見が対立し看護界は二分した。
看護教育が進まない理由の一つは、ナースを養成する費用であった。FNがこの問題を指摘した後、女王は記念祭(Women’s Jubilee Gift)で得た祝賀金の大半を訪問看護推進の資金として贈与した。他の問題は、知識と技術を超えて、ナースが必要な資質(character)をどう養うかであった。
FNの主張と闘いの終わり
FNはナースの養成について、資質(character)の育成が知識と技術の習得(mind)と同等に重要であると主張した。その背景には、酒におぼれ、道徳感に欠けた女性による看護を、職業に変えた自らの生々しい経験があった。クリミアの天使とされ、『看護覚え書』の出版以来、FNは40年かけて衛生改革を推進するため、人材の養成に努力した経緯がある。
看護協会が行う紙とペンによる試験だけで、資格を与える案は到底容認できなかったのであろう。しかし、協会側は、女王の娘(Princess Christian)を会長にして闘争を続けた。一方、FNを支持するナイチンゲール・ナースと、彼らが養成したナースは全国で活躍していた。訪問看護を推進したラスボーン氏や有名な政治家もFNを支持した。
最終的に、闘争は勝者のない妥協案で終わった。同年、FNはアメリカ・シカゴ市で開催された博覧会(the Chicago Exhibition of Women’s Work,1993)で、録音による講演をした。内容は“Sick Nursing and Health Nursing”で、講演を女王の娘に捧げた。FNが守り続けた教育理念は、一貫して理性(mind)と性格(character)の育成であった。
衛生改革のために戦い続けたFNの姿は、トーチを高く掲げる「自由の女神像(the Statue of Liberty)」を思わせる。FNは看護のシンポルとして、今も世界中の人々の心の中に生きている。