さが

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さが幕末・維新記念館を訪ねて

今年3月に開館されたばかりの記念館を訪れた。お堀に面した水色の美しい県庁ビルと県立図書館の緑地帯にそびえ立つ巨大なコンクリートの体育館が見事に改装されていた。

館内では迫力ある映像で紹介される佐賀藩栄光の歴史。イギリスが世界を制覇した二大技術は「鉄製の大砲」と「蒸気船」。アジアの国々、中国さえも植民地になった事情を知った佐賀藩主・鍋島直正は、ペリー来航以前にこの二つを日本で初めて完成。独立国としての日本を守り抜く礎を築いたのである。

その陰には直正が力を入れた弘道館における青少年の教育があった。初代総理大臣・大隈重信を初め、各界の指導者となった彼らの銅像が市の中央通りに並ぶ。(久間圭子・撮影)

さが幕末・維新記念館写真1
さが幕末・維新記念館
さが幕末・維新記念館写真2
鉄製の大砲
さが幕末・維新記念館写真3
偉人たちの銅像

天高くバルーン飛び交う秋の祭典:インターナショナルバルーンフェスタ

 自然の美しい「さが」で開催されるバルーンフェスタ、40年近い歴史がある。0歳から親しむバルーンベビーは年々増加し、3世代4世代と続いている。気流に乗るバルーンは稲作と同じくお天気次第。2016年度は19年ぶりの世界大会とあり、31カ国・地域から105機の参加で10日間、秋空を彩った。日本初のバルーンミュージウム開設、成長したバルーンベビーによるソングなど、確実に発展している。日本の精神文化が生きるこの町の人々に愛されて、超モダーンなバルーン大会の夢はふくらむ。

写真は上段がフェスタ風景、下段がミュージアム(久間圭子撮影)

特集 葉隠国際シンポジウム:葉隠に心酔した米国の外科医・哲学者を迎えて

 葉隠墓苑が佐賀と秋田の人びとの魂を結ぶ聖地であるなら、葉隠国際シンポジウムは真の人間教育の発達を願う佐賀とニューヨークを結ぶ二人の外科医の出会いに始まる。米国の心臓外科の初期に活躍し、後にWHOナッシュビルセンターを設立したドクター・スティシィ・デイと、当時九州大学の外科教授であった井口潔の出会いは1990年九州で開催された外科学会であった。学会の後、佐賀を訪れたディ教授は、葉隠に魅せられ研究を開始、「21世紀を生き抜くための英知」として世界の若者に広めている。二人の交流は1992年、佐賀市で開催された第一回葉隠国際シンポジウムで見事な成果を収めた。今回のシンポジウムは山本定朝による『葉隠』、日本人の魂を教える書、の執筆が始まってから300年を記念して平成22年10月13日に佐賀大学大講堂で開催された。


佐賀大学会場

山本定朝の記念碑

講演のヒトコマ

特集 葉隠墓苑:佐賀藩士の霊を祀る秋田を訪ねて

 超モダンなブルドーザー整地によって、あちこちで道祖神などめずらしい遺跡がぞくぞくと発見されている。日本の南北に位置する佐賀と秋田の人びとの魂を結ぶ葉隠墓苑もそんな整地を機縁とする。ちなみに『葉隠』とは、本物の武士が当時の武士の生きかたを記述しながら、きわめて庶民的であり武士や家族の生活を導く書である。以下、心温まる葉隠墓苑の物語を写真と共に紹介しよう。
 1986年秋田市新屋の土地整理で墓の移転が必要となった。見捨てられた墓地には今から130年前に戊辰戦争で佐賀から援軍にきて殉死した三藩士が埋葬されていた。発掘してわかったことは、南の佐賀を向く頭蓋骨や遺品が丁寧に埋葬されていたことである。凱旋して故郷に戻れなかった藩士の墓を見つけたのは移転工事を請負った会社社長、あわれに思い遺族を捜した・・・やがて慰霊碑の建立、記念植樹、関係者の交流が始まった。

 高校卒業後に秋田を去り長年外国で暮らした私は、3年前に夫の故郷佐賀に移住、葉隠の研究を初めてから墓苑の存在を知った。案内役は墓苑のある地区の新屋高校で教員をしたことのある弟だった。ところが彼は葉隠墓苑について聞いたこともないし、カーナビにも出ない。雄物川の清流を見渡す橋を渡ると現地に近いのに捜すのに一苦労、それだけに墓苑の発見はうれしかった。市街を見渡すひっそりとした小高い岡の上で、遠い雪国で亡くなった南国の武士たちが、秋田県人のまごころに包まれて安らかに眠っていた。

第6回 その数日本一:佐賀市・新年恵比寿めぐり

 三六万石の城下町で葉隠武士道の発祥地である佐賀は、精神文化の歴史が豊かな土地である。恵比寿が多いことについて、江戸時代にやってきた文人・菱屋平七が『筑紫紀行』に「この国の町屋にも村々にも道の辻ごとに恵比寿を置けり」と書いている。今も、有名な長崎街道から住宅街まで街中あちこちで恵比寿がみられ、その数はゆうに三百を超える。七福神・恵比寿は商家だけではなく、個人の家の守り神とされているようだ。恵比寿神社の前には、見守る人が絶えてしまった恵比寿が多数並べられている。道路の一角で長い年月の間に風化して形が崩れてしまった恵比寿の前に新鮮な花が絶えない。恵比寿を守る人々の信仰心であろう。恒例の新年恵比寿めぐりは一月と二月にあり、数人のボランティアのガイドによって行われる楽しく心温まる行事である。

     
     

第4回:葉隠史跡探訪の旅2:普明寺と浜宿酒蔵通り

 葉隠史跡探訪の2として、前回の祐徳神社とは対照的に佐賀藩の歴史の中で消え去るようにひっそりと残る普明寺(ふみょうじ)と浜宿酒蔵通りを紹介する。

 普明寺は鹿島藩主鍋島家の菩提寺で、一六七七年に唐から招待された禅師隠元の弟子桂巌を迎えて開山した。一万坪の広大な境内に開山後五年の歳月をかけて、仏殿・禅堂・方丈・鐘楼・石門・池・石橋が造られた。隠元が京都宇治に開いた黄蘗山万福寺を模倣している。寺全体を竜にかたどり、墓地に通じる道を参道としている。境内には樹齢三〇〇年を越える巨大な銀もくせいの木があり、まわりで子ども達が数人遊んでいた。公園が整備されなかった時代、夏も涼しい神社の境内で遊んだことをなつかしく思いだした。

 浜宿酒蔵通りは古い酒蔵が軒並みに並んでいるが、こちらもひっそりとしている。昔はあちこちの地上に湧き水があり、おいしい酒造りが盛んだったという。その中で、昔のままの建物を利用して酒造り・酒造観光を目指して開店した店を見学した。建物の大部分は酒造りの道具やおけ・タンクが並んでいたが、昭和時代の普通の家や生活用品を再現するコーナーがあった。写真展では、若い花嫁姿の女性が貧しそうな家の前で、二人の女性から最後の点検を受けている場面があった。今では、同棲してから、妊娠してから、白いウエデングドレスを着て、豪華なホテルで行う結婚式と披露宴を考えると、その変化は普明寺や酒蔵どおりの数百年の歴史よりも遥かに速く悲しく思われる。

 普明寺を自分のホームページで紹介する若い佐賀男児の次のような引用が心に残る。

大道廃れて仁義あり(老子)


普明寺の参道

酒蔵通りを散策する父娘

普明寺の山門

第3回:葉隠史跡探訪の旅:祐徳神社と博物館

 史跡の探訪は葉隠研究会の主要な年間行事である。今回は遠征のバス旅行となり、鍋島藩の三支藩の一つである鹿島藩ゆかりの地を廻ることになった。中心となるのは、年間三百万人がお参りする日本三大稲荷神社である祐徳神社と博物館であったが、他にも古い酒蔵が並ぶ「浜宿の酒倉通り」、藩の菩提寺である「普明寺」と猫塚のある「白石秀林寺」であった。有明海に近いこの地は、藩主がしばしば訪れて鷹狩を楽しんだお気に入りの場所。『葉隠』には「がばいばあちゃん」のような庶民とふれあった逸話が残っている。

 石壁山に抱かれるように建てられた祐徳神社の本殿は三代目の建物で、伊勢神宮の角南 隆の設計により昭和三二年に再建されたもの、初期の本殿と比較すると遥かに雄大である。錦波川の橋をわたって境内に入ると、目前に池をモチーフにした日本庭園や山の中腹にそびえる御本殿が見える。本殿からは山の頂上までは鳥居や石段が続く。祐徳博物館には旧鹿島藩歴代藩主の鎧兜が一同に展示され圧倒される。他に、藩のために作られた色鍋島陶器、鹿島錦、刀など藩の見事な芸術品は見ごたえがある。

 祐徳神社は、後陽成天皇の皇女の子として生まれ、京都から遠い肥前鹿島の地に 嫁いだ藩主、鍋島直朝公の室花山院萬子媛に始まる。萬子媛は嫁ぐ際に、父から朝廷の勅願所であった稲荷大神の神鏡を授けられた。それから二〇年経った貞享四年(一六八七年)に、萬子媛は石壁山社殿を建立し自ら奉仕していたが、宝永二年(一七〇五年)石壁山の寿蔵にて断食して入定を果たした。「祐徳院」は萬子媛の諡名であるが、祭神の稲荷神と萬子媛の霊験によって「祐徳院」と呼ばれて信仰されるようになった。祐徳神社への改称は明治の神仏分離による。神社の人の講話によると、萬子媛による社殿の建立や稲荷神の信仰は萬子媛が我が子を亡くすという悲しみの歴史があったという。


絵馬に書かれた願い

祐徳博物館外景

祐徳稲荷神社 前庭園

第2回:高伝寺:鍋島藩の菩薩寺

 佐賀市の南西部、閑静な住宅街の近くにある高伝寺は曹洞宗寺院で、1552年藩祖・鍋島直茂の父清房が開山して、後に鍋島家の菩提寺となった。一月中旬から白梅や樹齢四〇〇年の紅梅(霊徳寿梅)が咲く。私は一月初旬と梅の最盛期だった二月中旬に高伝寺を訪れた。駐車場となっている前庭から境内に入る木造の門の横に『葉隠』の序にあたる「夜陰の閑談」の一節を読むことができた。

 「・・・近ごろの鍋島の侍は、よその仏を崇めているが、我等はまったく理解できないことである。釈迦も孔子も楠木も信玄も、一度も鍋島家に仕えたことはなく、わが家の流儀に合いはしない・・・」

 偏狭とさえ誤解される純粋な気持の中に、葉隠精神を垣間見るような気がする。『葉隠』は藩主光茂の死後、生きた殉死に等しい壮烈な気持で遁世した山本常朝の七年に渡る口述の記録である。常朝が血脈を受け深く感化を受けた人は高伝寺の湛燃和尚で、彼は仏道と武士道の真髄に徹し、彼の言行逸話は『葉隠』に多く記載されている。門をくぐると左手に池があり、池の周りには観音堂や六百年の樹齢をもつ巨大な楠の木が遠い昔をしのばせる。その奥に建物がある。それらの建物を過ぎると巨大な墓地がある。墓地の周辺には町のあちこちに見られる堀があり静かな散策が楽しめる。梅の花は古代の和歌を思いださせた。

人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける

 帰途についたとき、なぜか京都の寺院を見るような感がした。日本の各地には無数の京都があるのだ。


鍋島杏葉の門

立ち並ぶ数百基に上る石燈籠

高伝寺境内にある観音堂

第1回:美しい自然と歴史のまち:「遠い日の風」から

単なる観光スポットとしてではなく、日本人に共通するこころのふるさと、日本の歴史に生きる精神文化を探りたい。第1回は予告編として佐賀市と周辺の写真集からいくつかの画像を紹介する。


神野公園
鍋島直正公の別邸、茶室・臨林亭が復元

高伝寺
鍋島藩の菩薩寺

祐徳神社
日本三大稲荷の神社

吉野ヶ里遺跡
弥生時代最大の遺跡

佐賀大学
唯一の総合大学

佐賀城跡周辺
残された鉄門と堀

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