第3回 佐賀藩栄光の歴史と「日本人の英語」:中 編

第3回 佐賀藩栄光の歴史と「日本人の英語」:中 編

はしがき

今回は、明治六年に日本が歩むべき道をめぐる政府内分裂の中で勃発した佐賀戦争と、戦争の終結で起こった「あふれるばかりの華麗な才能」の持主だった江藤新平の処刑を中心に述べる。処刑は江藤が理想とした国民国家と法治国家への黒い影であり、壊滅的な太平洋戦争への道筋となったと思われる。

幕末維新と佐賀藩士たち不朽の精神

幕末維新における佐賀藩の栄光を支えたのは、藩士たちが精神的ルーツとした『葉隠』。佐賀藩の二代目藩主・鍋島光茂(1632-1700)に仕えた山本定朝による生きた武士道の聞書である。定朝は父の計らいで、9歳で小僧として召し仕え、「お家を一人で荷う」心意気で働いた。光茂の死後、殉死が禁止されていたので出家し佐賀城の北10キロの山地で隠遁。やがて10年が経過、草庵を訪れた若い藩士と交わした語りから『葉隠』の記録が始まった。

『葉隠』は幕末維新で活躍した佐賀の賢人たちの精神的支柱となり、十代目の若き藩主・鍋島直正のリーダーシップの下で見事に花開した。

江藤新平と佐賀戦争の真相

 明治維新における江藤新平の歴史的な業績は、―藺綮碧ゞとして法治主義と人権の基礎を築いたこと(明治5)、⊃契瀛孤省の初代責任者・文部大輔(もんぶだいふ)となり、近代日本国家教育体制の軌道を敷いたこと(明治4)。江藤の基本的立場は「民あっての国」、すなわち、民主主義の理念であった。

 明治6419日江藤は参議に昇任、その稀な才能が期待される中、明治610月に起きた政変に巻き込まれ政府を去った。いわゆる西郷隆盛が関与する「征韓論政変」とも呼ばれるが、真相はきわめて複雑である。

江藤の処刑と日本の民主主義

結果から言うと、江藤は政府への反乱の首謀者とされ死刑に。後の歴史家の検証によると、佐賀の乱は「全く江藤の与らぬ」事件で「つなみにさらわれたようなもの」。死に臨んで、「ただ皇天后(天の神・地の神)の我が志知るのみ」と三度高唄。「人権の父」江藤の惜みてあまりある非命の最期だった。最後まで真理を求めたガリレオの死を思わせる。

次回は、江藤の死によって挫折した明治日本の民主主義と英語教育の歴史について述べる。時代を逆行する小学校英語の政策は、子どもたちの人権にかかわる。政策の真相を知るほど危機感が募る。平和日本を覆う黒い影のように・・・。 [2018.8 KK.HISAMA]

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