はしがき

はしがき

 

  長い国際生活を終えて帰国して以来、不思議に思うことがある。日本では公的な立場ではもちろん、プライベートな会話においても宗教は禁断である。アメリカの大統領は信心深いことで国民の信頼を得るのに、日本の政治家はプライベートな立場でさえ宗教は危険視される。西洋では厳粛な裁判や教育・スポーツに到るまで、自分が真実で誠実であることを神に誓う。宗教学は大学教育の伝統的な専門科目であるが、日本の大学では哲学はよいが宗教は避ける。その背景には戦後急速に広まった宗教恐怖と宗教回避があるようだ。確かに、キリスト教や新宗教の布教は押し付けがましく、家族の心を分割し、狂気のような信仰は身震いするほど恐ろしい。

戦後の教育を受けた私が宗教の深い意味に気づいたのは、渡米後五年ほど過ぎてから、ある若い主婦との出会いであった。快適な初夏のある日、我々一家は夫の同僚で、郊外の牧場に住むB教授の自宅に招待された。アメリカの北西部ではめずらしく、一家はユダヤ教を信仰していた。昼の正餐が済んでから、小学生だった子どもたちは裏の牧場で仔牛と遊んでいた。夫はB教授と協同研究の話しに熱中していた。私は常々信仰深いと聞いていたB夫人と居間のソファに座った。
  「ユダヤ教はどんな宗教(religion)ですか」 私は寺院で祈る夫人の姿を想像しながら聞いた。
  「私にとってユダヤ教は単なる宗教(religion)ではないのです・・・毎日の生活そのものであり私が生きるすべてです・・・」
それまでもの静かだったB夫人は、少し興奮した様子で語り始めた。このできごとは、私が宗教の深い意味に目覚めた瞬間であった。宗教の本質は私が考えていた儀式や観念を超え、民族の長い歴史の中で継承され、充実した生活を営むための源である。宗教が人々の生き方の中にあるという考え方は、近代における最大の社会・宗教学者マックス・ヴェーバーと同じである。
  古代から男性は生活の糧を得るために家の外で働き、出産・育児を担う女性は、神と交流しながら家族の生活を守ってきた。宗教は身体的な経験を基礎として、日々の生活の意味を見出して生きるための糧となる。もし生活の中に宗教の役割がないならば、人間は巧妙な動物にすぎないであろう。人間も動物も生命力は本能に根ざし欲望として表れる。最も基本的な欲望は食欲と性欲である。これらの欲望は名誉欲や権力欲に発展する。宗教は欲望を導く「人の道」を教えてきたのである。
人間と動物が大きく違う点は、人間は生きる意欲となるアイデンティティを必要とすること、人間は欲望を満たす過程において生きる意味を求めることである。人生の意味やアイデンティティの形成において宗教の役割は大きい。宗教は世界観の根底をなすもので、人々の価値観、自画像、モラル、倫理観など、すべて宗教を基礎にしている。宗教を否定することは、人間としての存在を否定することに等しい。
  戦後日本人の間に広まった宗教の誤解は基礎教育に影響し、日の丸と国家斉唱は子どもたちの間で忘却の彼方に追われてしまった。自国の国旗や国家を否定する国家は世界でも日本だけであろう。神への誓いにより異民族が結束するアメリカ、反対に宗教を否定し同一民族を限りなく分割する日本は対照的である。最近は生産部門だけではなく、教育や医療・福祉の分野まで外国人が参加している。異なる宗教による価値観をもつ彼らと共生するために、国民ひとり一人が宗教の本質を理解し、宗教の本質を意識して日々の生活の中で実践することが求められる。
  今では、宗教が教える道徳や価値観は各国の法律や施策に反映され、日常生活における政治や経済の役割が大きい。しかし、法律は、宗教が教える広汎な倫理や道徳と比較して極度に制限されている。戦後は多数の宗教・宗派や過激な思想が氾濫して、家族の分割や社会の亀裂が起こり、人間関係のストレスは高まるばかりである。日本人に蔓延する心の問題は、こうしたアノミー社会における人間関係のストレスが最大の原因である。心の問題は身体の問題となり容易に回復しない。癌も含めて生活習慣病は身体の病気でありながら、実は心の問題が大きく影響している。広汎な心の問題は、宗教を否定する社会で積み重ねられたものであり、科学者である医者や心理士が根本的に治療できるものではない。
  日本人の宗教恐怖・宗教回避の深層心理を理解しない限り、蔓延する心の問題、関連する医療問題、そして広汎な社会問題は解決できないであろう。宗教はそこここに感じる雰囲気ではない。もっと激しい精神の飢餓からであり、宗教の個人性と集団性は深い理解が必要である。民族の歴史において社会の遺伝子のように継承されてきた宗教は、人間相互の深い理解を促し、人々の信頼とつながりを時代にふさわしい形で回復できると信ずる。
  読者が本書から日本人が伝承してきた宗教の本質を見出し、異文化社会の人々を理解し、心豊かな生活をおくるよう切に願う。

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