読書コーナー(平成30年度)

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第7回 料理書が語るストーリー・大統領亡きあとのケネディ一家

Cooking for Madam: Recipe and Reminiscences from the home of Jaqueline Kennedy Onasis.  by Marta Sgubin

はしがき

 就任後、わずか210カ月暗殺されたJFK。残された家族3人を支えたのはイタリア出身のマータ・スグビンさん。初めは幼い子どもたちのナニー、後に家族とゲストの家政婦兼料理長となる。レシビは毎日の食事の他に感謝祭やクリスマス、ゲスト・メニューなど、写真と思い出のストーリーがである。

未亡人となったジャクリンと幼児たち

 オープンカーの悲劇と喪服姿の夫人・二人の幼いこどもたちの姿・・・。料理書はその後の人生における、心温まる家族のストーリーである。

 多忙な大統領夫人の片腕となって子育てを助けたのは母ブービエ夫人。フランスの高官の子どものナニーだったスグビンさんを知り、孫たちを託す人と考えていた。しかし、ヨーロッパ出身のスグビンさんを説得したのは、再婚した憶万長者オナシス氏だった。

 O氏は、ジャクリン夫人の悲しみを癒すチャーミングな人物の印象を受ける。彼は、暗殺の悪夢に襲われ安全な要塞を求めたジャクリン夫人に、ギリシャの島とヨットを与えた。しかし、結婚後わずか五年で死去。原因は、長男の飛行機事故による不慮の死とされる。

料理書の誕生まで

 再婚したジャクリン夫人の住居は、フランス・ギリシャ・米国の各地に数多く、ヨット上の生活まで。ヨットでは専任の料理人がいた。好奇心の強いスグビンさんは、そこで料理の基本を学び、ニューヨークで料理を始めた。

 本格的に料理したのは、O氏が亡くなり一家がアメリカに帰ってから。別荘地でおいしい食事は家庭料理が一番。料理の腕前がめきめき上達した。出版社の編集者となったジャクリン夫人は、イラスト入りのお礼のことば送り、料理書を書くように勧めていた。

 しかし、本が出版されたのは、ジャクリン夫人の没後、子どもたちの懇願によって実現した。JFKジュニアによるまえがきがある。

思い出のレシビ

 チョコレート・ケーキ:O氏が生前、好物のケーキを食べたいという。困ったスグビーさんは、ケーキミックスで即席のケーキを作った。そのおいしさに感動したO氏は、沢山のケーキミックスを買ったと云う。

 レモンスフレ:本の表紙を飾るスゥイートはパーティで大人気。私が試したら数時間かかったが、写真のようにきれいでおいしい絶品だった。

 次々に起こった一家の悲劇の中で続く日々の営み。お料理は、どんな家族においても、五感から得られる最高の幸せであり続けるのだ。[KK.HISAMA,2019.1]

 

第6回 五感によるコミュニケーション・料理書が語るストーリー

はしがき

文科省の指導要項では、外国語(英語)による「コミュニケーション」を目標としている。確かに人間だけがことばを話すが、ことばは全ての生物が生きるために必要なコミュニケーションの一つのかたちに過ぎない。生物に共通するコミュニケーションは、一つ以上の五感によって生きるために行う。触覚限定でコミュニケーションする生物も存在するが、霊長類は五感のすべてを使う。

コミュニケーションとしてのお料理

ことばだけが人間の特技ではない。料理ができるのも人間だけ。味覚・臭覚・視覚・触覚で味わう食事は、聴覚からの会話と音楽があれば更においしい。料理こそ、家族から国際交流まで、五感による強力なコミュニケーションの手段と言える。

長い間、お料理は文字ではなく手技として、親から子へ、師匠から弟子へと伝えられてきた。今では文字による料理書だけでなく、新聞・雑誌・テレビなどによる伝授が広まり、ネットでも容易に検索できる。それでも、料理書の人気は一向に衰えない。親から遠く離れた子にとって料理書は確かな料理教師。

進化する料理書

そんな料理書も時代の流れと共に変化している。移民大国アメリカでは、家族が離散する長い歴史がある。親から子へと伝授する役割は、早くから料理書が代替するようになった。私が渡米した頃は、料理書と言えば赤い格子縞の表紙のBetty Crocker Cookbook、どこの家庭でも見られた。今ではあらゆる選択肢があり、料理家が求めるのはありきたりの料理書ではない。

例えば、アメリカでギフトとして人気が高い料理書は、大判でゆうに1000ページを超え、百科事典のように分厚い。すべてのレシビは、専用のキッチンで、専門家が失敗を重ねながら料理を続けて完璧とされたものばかり。初心者も安心しておいしい料理を作れる。

ストーリーを楽しむ料理書

 楽しく料理したい、おいしく食べたい。そんな人の間で人気が高いのが、ストーリーのある料理書。すべてのレシビはストーリーがある。読者の心に響くのは、やはり家族の心温まるエピソード。あこがれの有名人の家族とか、何世代も家族の間で伝えられる伝統料理などが人気。

次回はそんな料理書・英語版から、二冊のベストセラーを紹介したい。[KK.HISAMA,2018.10]

 

第5回 幕末・維新を生きた女たち:イタリア画壇の花となったお玉

幕末から維新へ、日本の歴史が大変革した時代に、ヨーロッパで活躍し世界的な名声を得た一人の日本女性がいた・・・。

続・維新の女:楠戸義昭・岩尾光代、毎日新聞社、1993

はしがき

 日本人があこがれる近代ヨーロッパの有名な画家たちは、実は、葛飾北斎(1760-1849)や歌麿(1753-1806)など浮世絵から学んでいることが広く知られている。開国・明治維新(1867)の半世紀以前のこと。明治維新後は、政府の招待を受けて欧米から来日する学問・芸術の指導者が増加。お玉の才能を認め師となったイタリア人も、東京で新設された美術学校の教師だった。

お玉17歳・「花園」での出会い

 浄土宗の大本山・増上寺を差配する江戸の大家に生まれた。広大な屋敷には木々が茂り、池あり、川あり、庭先から船で海へ。明治になってから父はこの屋敷内に茶店と花園を経営。ある日、縁側で花鳥を描いていたお玉にカタコトの日本語で話しかけた異国人がいた。やがてお玉はこのイタリア人から洋画を学ぶ。

イタリア人・ラグーサを生涯の師として

 お玉22歳の明治15年、ラグーサはシシリー島に出来る工芸学校の校長になるために帰国。お玉に水絵と蒔絵の教授になって欲しいと頼む。この学校でお玉は副校長に。社交界にも溶け込み、7年後ラグーサと結婚。夜学でイタリア語を学ぶ。

国際的な名声を得て・・・

 お玉の絵は、ニューヨークやヴェネチアの万国博覧会・婦人部門で最高賞を受賞。二年がかりで、カルーソー家のサロンの天井に「楽園の曙」を描いたのは40歳の時。その頃から20歳年長の夫が視力を奪われ、杖となって14年が過ぎた。異国でただ一人心の支えだった夫は68歳で他界。お玉はシシリー島の土になろうと決心した。亡き夫を想い喪服の日々を過ごしていたが望郷の念はつのるばかり・・・。

 ある日、天井に描かれた絵を発見した一人の日本人がいた。やがて新聞記事から小説に・・・。すでに73歳で日本語を忘れたお玉は夢にみた故国へ。一族の善意に支えられ再び絵筆を執り続け79歳で亡くなった。[KK. HISAMA 2018.8]

 

第4回 幕末・維新を生きた女たち:シーボルト父子と日本女性(後編)

維新の女:楠戸義昭、毎日新聞社、1993

続・維新の女:楠戸義昭・岩尾光代、毎日新聞社、1993

女たちの明治維新:鈴木紀子、NHK Books、2010

はしがき

前回は父シーボルトが愛した妻・滝と、医師を目指しながら苦難の人生を歩んだ娘・稲の物語。今回は同じく数奇な人生を歩んだ稲の娘・高子の人生。時代を下り日本にやってきたシーボルトの息子ハインリッヒが愛したハナの物語である。

稲の娘・高子が歩んだ数奇な運命

医師を目指し産婆の仕事をした稲に代わって高子を育てたのは母・滝。高子(16歳)は宇和島藩邸の奥女中として働いたが、医師・三瀬周三(28歳)と結婚。しかし、周三がコレラで死亡すると高子は夫の遺志を継いで医師を決意する。

 その高子はかつての稲と同じく医師の片桐重明によって妊娠、男児を出産し周三と名付けた。その後、高子は医師・山脇泰助と再婚するが、山脇は三人の子どもを残して35歳で死亡。高子は生計を立てるために琴を習い教師になった。今度は、稲が高子の三人の子を育てる。

シーボルトの息子・ハインリッヒの愛

 日本を去った父シーボルトは、帰国してヘレーネと結婚し三男二女に恵まれる。長男のアレクサンダーは長崎で日本語を学び、しばらく日本で通訳をしたが帰国。アレクサンダーは弟のハインリッヒに日本語を教え、今度は17歳のハインリッヒが日本にきた。日本文化に強い関心をもつハインリッヒは歌舞伎に魅せられ、踊りや三味線が上手だったハナと結婚。ハナの父は、日本橋の商人で外国の商人と取引をしていた。

 ハインリッヒは結婚して間もなくウィーンへ。二人のカタカナ日本語による文通が始まった。ハナは妊娠していた。ハナと同居して出産を助けたのは稲だった。この男の子は4カ月で亡くなるが、ハインリッヒが日本に帰国し二児が生まれる。日本考古学の先覚者となったハインリッヒは、学問を愛し息子と発掘調査も行った。

 しかし健康を害したハインリッヒは44歳で日本を去る。子どもと日本に残ったハナは、踊りの師匠になり、シーボルト夫人として政府高官から大事にされる。後に学習院の寮母として、華族の子弟たちに慕われたという。[2018.7 KK.HISAMA]

 

第3回 幕末・維新を生きた女たち:シーボルト父子と日本女性(前編)

維新の女:楠戸義昭、毎日新聞社、1993

続・維新の女:楠戸義昭・岩尾光代、毎日新聞社、1993

女たちの明治維新:鈴木紀子、NHK Books、2010

はしがき

 偉人の陰には彼らを支えた女性がいる。幕末から維新へ、日本の歴史が大変革した時代、愛する男たちのために生きた女性たちの物語がある。

シーボルト父子と日本女性たち(前編)

父シーボルトの愛と別れ

 ドイツ人医師で植物学者の父シーボルトは、愛らしい遊女だった滝と結婚、娘の稲が生まれた。しかし、五年間の任期を終えたシーボルトは帰国の直前に「シーボルト事件」に巻き込まれ多くの弟子たちも処罰された。シーボルトはふたたび日本にくることを禁じられ、滝と稲に別れを告げて日本を去った。

 まだ二十歳そこそこの美しい滝は再婚したが、混血児の稲にとっては過酷な人生となった。芸事や家事ではなく医師を目指した稲は、父シーボルトの門人・二宮敬作をたよって家出、外科医学の手ほどきを受けた。敬作は女性の産科医がいなかったため、稲に産科を学ぶことを勧めた。

未婚の母として

稲は一九歳で産科医に弟子入りしたが、二五歳のときこの産科医の暴力によって妊娠、未婚の母となった。母子で生きていくため、稲は長崎に帰り母に娘をあずけて開業医のもとで外科を学びながら産婆の仕事を始めた。ある日、敬作が開明派の大名・宇和島の准藩医で天才的な頭脳の持主・大村益次郎を稲に引きあわせた。

大村の論理的な話し方や知性に魅了された稲と大村の関係が始まった。西洋の兵学に明るい大村は江戸にでて自分が開いた洋学塾で稲と同居。やがて幕府の講武所の助教授になった。

稲の愛した人との別れ

 母の死とひきかえに稲は日本初の女医を決意。履歴書には明治三年に東京で産科医開業とある。母の死からわずか四カ月後に大村が京都で暗殺者に襲われた。大阪府医学校病院の院長・緒方とオランダ人外科医・ボールドウィンが治療に当たった。稲と娘の高子の看護も空しく、大村は亡くなった。母と愛する大村を同時に失った稲は東京で産科医とした活躍、宮内庁の御用掛として名声を得たのである。[2018.6]

 

第2回:幕末・維新を生きた女性たち(その2)

維新の女:楠戸義昭、毎日新聞社、1993

続・維新の女:楠戸義昭・岩尾光代、毎日新聞社、1993

女たちの明治維新:鈴木紀子、NHKBOOKSNHK出版、2010

はしがき

 偉人の陰には彼らを支えた女性がいる。幕末から維新へ、日本の歴史が大変動した時代、愛する男たちのために生きた女性たちの物語がある。富と自由を手にした現代女性にどんなメッセージを与えるのか。

天皇と宮家の女性たち:昭憲皇太后

明治天皇と共に文明開化の魁となる

なぜ日本は列強の植民地にならなかったのか。事情は多々あるが根底にあるのは日本人の宗教とも言える尊王思想である。幕末の日本を動かし、天皇のために戦った志士たちの全てに共通する思想。武士だけでなく、すべての藩主、歴代将軍もすべて尊王思想の持ち主です。幕府の上に朝廷があるのです。

明治維新は、結果的に倒幕によって天皇が元首であり日本のリーダーとなった改革。明治天皇の妃となった昭憲皇太后は、19歳の明治元年(1868)にご成婚。即日、皇后に擁立され、明治天皇と共に新時代を拓いたのです。文明開化という日本の西洋化は、この皇后のもとから動き始めました。

日本の西洋化推進の象徴として

 昭憲皇太后はお歯黒をやめ、洋装はもちろん、牛乳を飲む、肉を食べるなど、西洋の習慣をすばやく取り入れました。しかし、味噌汁が大好きで洋食は好きではなかったようです。

明治18年に来日したフランス人ピエール・ロチは、観菊御宴で皇后にお会いし、見聞記『秋の日本』を執筆。若々しい皇后について次のように記しています。

「鎖国の幾世期を経たあとで、自国を未曾有の世界に引きずりこんでゆくこの眩うんのさなかにあって、皇后はこれからまだどれほどの驚きと心痛とを味わってゆかねばならないことだろう!」

天皇と共に国内の視察だけでなく軍事演習にも出かけた皇后。同じ尊王思想を持ちながら官軍と戦い亡くなった勤皇の志士たちや西郷隆盛に思いを馳せた歌があります。

「さつまがた沖の波間にかげきえし、月は今こそあらわれにけり」[2018.5]


 

第1回:幕末・維新を生きた女性たち(その1)

維新の女:楠戸義昭、毎日新聞社、1993

続・維新の女:楠戸義昭・岩尾光代、毎日新聞社、1993

女たちの明治維新:鈴木紀子、NHKBOOKSNHK出版、2010

はしがき

 偉人の陰には彼らを支えた女性がいる。幕末から維新へ、日本の歴史が大変動した時代、愛する男たちのために生きた女性たちの物語がある。富と自由を手にした現代女性にどんなメッセージを与えるのか。

天皇と宮家の女性たち: 皇女・和 宮

花嫁行列二万五千人、史上最大の政略結婚 

 仁孝天皇の第八皇女で弘化二年(1846)誕生。黒舟来航七年前のお生まれ。勤皇(尊王攘夷)だ、左幕(攘夷・倒幕反対)だ、開国だ、と騒がしい時代に生きた。ご結婚相手は同じ年の将軍家茂(いえもち)。最大の「公武合体」政略結婚とされ、朝廷と幕府の対立を収めるためだった。

京都から江戸への花嫁行列は二万五千人、一日何千人もの人足と数百頭の馬を動員した大行列。沿道の二九藩が警備にあたった道中費用は、今のお金で百億円、五日間の旅程だった。道中に作った和歌の中に和宮の心情が伺われる。

「落ちてゆく身と知りながらもみじばの、人なつかしくこがれこそすれ」

「惜しまじな君と民とのためなれば、身は武蔵野の露と消ゆとも」

 一六歳の和宮は十一月十五日江戸へ入る。興入れの条件とした五カ条は守られず、義母・天璋院と侍女からの嫌がらせを受ける。こうしたことを知った天皇は、違約詰問の使者の検討など、朝廷と幕府の間でもめるなど苦難の始まりであった。

徳川家の女として生きる

京都の朝廷から江戸の幕府へ、苦しい人間関係の中でも、和宮は江戸城の中で自分の立場を着実に築いていく。和宮を支えたのは第十四代将軍家茂(もちしげ)の親密な夫婦愛。徳川のために生きようとする覚悟を決める。しかし、将軍家の子は生まれなかった。結婚四年目、二人が二十歳のとき十七歳の蝶を側室として和宮が自ら選ぶ。

家茂は長州征伐のため上洛し二一歳で大阪城にて死去。棺の中には和宮が夫に宛てた手紙があった。

「いったん徳川氏に嫁いだ上は、徳川氏のために命を捨てます。早いお帰りを一日千秋の思いでお待ちしますが、国のため速やかに凱旋されますことを」と書かれていた。

和宮は江戸城にとどまり、江戸の町を天皇の名のもとに守ろうとした。城もろとも焼き尽くそうとする薩長軍の行動を抑止する盾となる。維新後、徳川家が七十万石の大名として存続できた裏には、和宮の多大な尽力があったとされる。[2018.4]

 

 

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