第1回 随想文学の古典にみる日本人のこころ:はしがき

第1回 随想文学の古典にみる日本人のこころ:はしがき

  アメリカで、世界中からやってくる外国人学生の英語学習の研究をしていた頃のことである。日本人学生は、他国からの学生に比較して、英語を話す能力が劣るものの書く能力は高かった。これは日本と西洋諸国における教育の違いを反映しているようである。私がアメリカで学んだころ(1968−1995)、入学1年目から話す能力を養う「スピーチ」の科目が必須で、書く能力「コンポジション」と並行して教育される。どちらのコミュニケーション能力の育成で、真の民主主義発展のために重要な科目である。その間、学部から大学院まで4学位を取得したが、一緒に学んだ限りアメリカの学生は、話すことは得意でも書く能力が劣るようである。
  確かに、日本では書く能力の伝統が長い。思えば、遠く万葉集の時代、天皇から防人(さぎもり)や家族まで、庶民が歌を詠んでいる。インターネットやワープロが広く普及してから20年ほど経った今では、庶民が書く行為は新たな形をとっているようである。ラジオは朝から晩までみなさまの「お便り」を読みあげ、インターネットでは読者がトピックをだし、それに答えてレスポンスを書く。NHKの番組「音の風景」を構成する読者の原稿も思い出の「随筆」とも考えられる。俳句・川柳・和歌と同様に、庶民による新たな随筆文学の時代が到来した感がある。これらの書文は、人々の随想であり、その時々の心の表現である。
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  随想文学における三大作品は、西暦1000年の頃、最初に書かれたという『枕草子(まくらのそうし)』がある。それから百数十年後に書かれた『方丈記(ほうじょうき)』と、同じく百年のときを経て書かれた『徒然草(つれづれぐさ)』がある。随筆は俳句・川柳・和歌のような形式にとらわれない、思うままに書かれた、肩がこらない読物である。これらすぐれた作品は、他者を鏡として自己を見つめ、変わり行く季節の趣をめで、困難を乗り越えて生きた記録である。遠い時代でありながら今も新鮮で、読者に様々な刺激や啓示を与えてくれることと思う。
  今年度の学術セミナーでは、これら三大作品の中に、忘れかけられている「日本人のこころ」を、私の長い外国生活の経験に基づく国際的視点から探ってみたい。 

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