読書コーナー(平成25年度)

読書コーナー(平成25年度)

「命の終り」を考える:サイエンスと民俗学の視点(その1) 

不老不死のサイエンス:三井洋司、新潮新書、2006
波平恵美子:日本人の死のかたち・伝統儀礼から靖国まで、朝日新聞社、2004
 
はじめに
 古来、「命の終り」は万葉集の挽歌など文学の中で読者の深い感動をよぶ概念。宗教や哲学の主題でもあり、決して人間が対決すべき恐ろしい敵ではなかった。「命の終り」としての死は、自然の営みとして受容され、人々はより寿命の短い家畜やペットの死をくり返し経験してきた。しかし、サイエンスの世紀とされる20世紀になると、科学の発達がもたらした経済的な豊かさや高度医療の発達が、老いと死の概念を根本から変えてしまった。例えば、昔は自由だったペットは、年老いると外にさまよい自然に帰っていった。今では、24時間人間に見守られ、老いて心臓病、ガン、痴呆症になる。ペット・ロスは人間の精神に深く影響する。「命の終り」は自然の摂理よりも、人間によるサイエンスと法律に支配されるようになった。今回は、サイエンスの視点を紹介しよう。
 
不老不死のサイエンス:三井洋司、新潮新書、2006
 著者は再生医療、遺伝子操作技術などの分野における先駆者、研究結果を踏まえて、「不老長寿」を解説している。第一章は基礎知識で多様な生物(300万種)と自動車のような無機物にもある寿命について広く解説、第二章と同じく細胞レベルの話が多い。活性酸素の影響と寿命に関わる遺伝子の研究を紹介、環境や生活習慣改善によるアンチエージングの方法、人間の最大寿命にも言及している。
第三章は未来の寿命延長、再生医療技術の実用化に関連して「成体肝細胞と不死化細胞」を語る。出版当時にヒトの正常細胞が不死化された例は、皮膚の繊維芽細胞、血管内皮細胞、網膜上皮細胞、末小血リンパ球、肝臓の実質細胞など。不老長寿に直接貢献する人工臓器は可能性に満ちているという。著者は抗癌剤の副作用やホルモン療法の脅威を述べ、「真のアンチエージング」を語るが、それは適度なストレス、食事、運動、睡眠など。一つ興味深いのは長寿者の性行為で、子孫繁栄のためではなく、心と体のコミュニケーションとして貴重な意味をもつと指摘。
最後に著者は、不老長寿の世界は成熟した倫理観を前提としていること、自分の生のあり方を多様な選択肢から選ぶ過程で自分自身が試されていくに違いないと言う。では、生の終りは何歳か、百歳時代が現実になった今では二百歳の可能性さえ語られている。[KK.HISAMA 2014.1]

「家で死にたい」概念の分析と実践(その2)

家庭のような病院を:人生の最終章をあったかい空間で、佐藤伸彦、文藝春秋、2008
抱きしめておくりたい:看取りの日々を生きる、柴田久美子、西日本新聞社、2006
 
前回は一冊目の著書「家庭のような病院」の空間について述べた。今回は2冊目の著書で、グループホームにおける家庭的な看取りである。これらは、医療政策によって看とりの場が病院から介護施設に移行し始めた頃の著書である。
日本のホスピスは、1970年代すでにキリスト教の病院や先駆的なグループホームにおいて始まったが、近年増加の一途をたどる看とりは特養ホームが主流となっている。ある施設長は、「最期に自分の子どもや兄弟に会いたいのは自然であり(関係がわるくても)・・・」息を引取る瞬間には、本人と家族との関係しか存在しない「だから私たち職員が家族の代わりになろうなどとゆめゆめ思ってはならない」と話していた。『抱きしめて・・・』の著者が設立した、地域に密着する小さなグループホームは、こうした高齢者の本能的な人間の願いを満たしてくれるような気がする。
 舞台は島根県隠岐諸島の一つ、知夫里島・日本海の真中で内海をもつ諸島、そこは病院死が8割だった時代でも在宅死75%という過疎地・離島の一つ。島のお年寄りは、暮らしの中で心のなかに染み込んだ風景、潮の香り、漁船の音がなつかしむ。著者・柴田はレストランでの仕事をやめて介護の世界へ入った(1992)。特養寮母、ホームヘルパー経てNPOなごみの里設立し、ボランティアに支えられながら看とりを始めた。最終章(第四章)は中学生に向けた講演の集録、「抱きしめておくりたい」という柴田さんの看取りのエッセンスを知ることができる。この章の最後に、マザー・テレサの看とりの大切さを教える言葉がある。
   「人生の99%が不幸だとしても、最後の1%が幸せならその人生は幸せに変わる」
訪日の際に、マザー・テレサは心の貧しい(poor)日本人が多いことを指摘している。アメリカの高度医療を受け入れてきた日本では、医療保険・介護保険が普及し、ケアを必要とする高齢者が急増している。彼らのニーズに答えるために、アメリカのような有料老人ホームにおけるケアと看取が増加している。そこでは、入所時に2−3千万、月額30万というアメリカ並みの老人施設も少くないようだ。
  これら二冊の書は、立場は異なる著者がQOLと共にQOD(=満足な死)と真剣に取り組む時代の先駆的な書である。我々が死と向き合って生き、満ちたりた最期を迎える原点を考える上で示唆が多い。[K.K.HISAMA.2013.11]

「家で死にたい」概念の分析と実践(その1)

 家庭のような病院を:人生の最終章をあったかい空間で、佐藤伸彦、文藝春秋 2008

 抱きしめておくりたい:看取りの日々を生きる、柴田久美子、西日本新聞社、2006 

 
 これら二冊の書の著者は医師とホームヘルパー、場所は病院と小さな一軒家と対照的である。しかし、どちらも首都圏から遠い田舎で、家庭のような空間で看取りを実践している点で共通している。
 
 一冊目の著者は北陸地方の小都市で高齢者医療を実践した医師である。日本のホスピスは、これまで末期がんの患者に限定されてきた。そのため、寝たきりで食事もできない、胃ろうなどの重症患者は、病院や特養で最期を迎えることになる。本書は、がん患者だけでなく、あらゆる場所で人生の最終章を生きる高齢者のための緩和医療を主張。「自分の家で死にたい」という人々の願いを実現するために、ナラティブ(narration:物語)をキーワードにした医療を考えた。
 本書が出版された前後から、病院における医療は法律によって制限され、看取り医療は次第に特養施設に移行していた。このように看取りの場所は変化したが、ナラティブは家族とケアに関わる人々との相互理解を深める重要な概念であると思う。すなわち、ナラティブによって、病院のスタッフが患者の家族が共有する個人史を知り、家庭のようなあったかい空間でケアする試みである。以下、著者が報告するナラティブの概念の実践を述べたい。
 ナラティブアルバム:脳卒中の後遺症で寝たきりのHさん。ある日、家族が車椅子で連れ出して、許可なく総合病院の外来で点滴を受けていた。主治医として家族の気持を受け入れようと考え、Hさんの生活史(患者の物語)を知ることにした。それから4ヶ月かけて、スタッフが協力して家族の話と写真を綴ったスライドを作成。アルバムでは、Hさんの若い頃、愛する家族の存在、その中における関係性の人生が見えた。皆の目に涙があふれ、とても温かい気持になった。家族からは感激の書状をいただいた。
 ナラティブシート:体温・脈拍・呼吸・血圧、病状、投薬、処置などを記録するカルテ、他に食事や排泄の記録は重要である。それと並行して患者や家族の言葉を記録するのがナラティブシート。ただ話した言葉の記載であるが、今まで気づかなかったことが見えてくる。例えば認知症の人でも、相手によって敬語を使う、話の内容も少し異なる、突飛な話でも、どこかで過去と現在がつながっている。記録は家族に安心感を与える。

著者は患者の葬儀にも出席して医師として挨拶する。葬儀に出るということを通して、ひとつの物語を読み終え書き終えた、という感じが生まれる・・・この感覚は大事にしたい。これからは、高齢者医療に関わる人々に「空しさとあきらめ」ではなく、ナラティブ記録で感じた「この達成感を感じて欲しい」と言う。[K.K. HISAMA, 2013.10]

介護と看取りの理論と実践:介護施設における看取り

今年度の読書コーナーでは、介護と看取りの書を紹介している。最初の2冊は:

1.なぜ老人を介護するのか:スエーデンと日本の家と死生観:大岡頼光、勁草書房、2004
2.介護施設で看取るということ:甘利てる代、三二書房、2007
 
  第一回はしがきに続いて、第2回は理論書『なぜ老人を介護するのか・・・』、第3回では、実践書として『介護施設で看取るということ』を紹介する。日本における介護の実践は、アメリカの高度医療を発展させた自由主義とは異なり、介護保険に支えられた社会民主主義的思想が色濃い。また、ヨーロッパ諸国における老人ケアの中心となる「人格崇拝」が、広く浸透している。しかしながら、「人格崇拝」による孤立をさけるためのキリスト教的な「国家の家」の概念はなかなか困難である。そのため介護と看取りにおいても、日本の「家」という概念をどう考えるのかが問われており、著者の現場検証もここに一つの焦点が当てられているようだ。

  エピローグで、著者はある大学教授の言葉として「・・・在宅に勝るものはありません。・・・人間としての尊厳を保つことができるのが在宅だからですよ」を引用し、批判している。すなわち、現代でも家で死にたいと考える人は8割、だが実際に死ねるのは2割である。我々はこうした現実を見つめ、施設で亡くなることを「さびしい」「悲しい」ことにしてはいけない。日本の家制度が崩壊していく中で、我々は施設におけるケアを中心に考えるべきである。著者は長い現場検証の最後で、「新しいケアの萌芽は、すでに現場で生まれつつあると、確信している」と述べている。

  *   *   *   *   *

 本書の内容は、施設における看取りの萌芽を探し、当時の先駆的な取り組みを述べている。今でも、「なぜ、どのような介護と看取りがよいか」という問いに答えてくれ、現場から学ぶ示唆が多い書である。例えば、ある施設長の言葉として、「人は息が切れたから死ぬのではない、魂が落着いたから死ねるのだ、だから魂が落着くようなかかわりが求められている」が印象深かった。著書におけるこの部分のサブタイトルは「看取りとは魂と付き合うこと:本人の尊厳を尊重する」である。人間は体のケアを超えた魂のケアを求めていることを深く心に刻みたいものである。[K.K. HISAMA, 2013.7]

 

介護と看取りの理論と実践:社会学の視点から

 今年度の読書コーナーでは、介護とその先にある看取りについて読者が確かな個人的見解をもてるように、理論と実際について述べている。今回と次回は施設における介護と看取りが注目されるようになった初期に執筆された書を紹介する。どちらも義母の介護と看取りを眼のあたりにして、日本の介護事情の発展を願って執筆された書であり、その後の介護と看取りの発展に少なからず影響したと考えられる。

1.なぜ老人を介護するのか:スエーデンと日本の家と死生観:大岡頼光、勁草書房、2004

2.介護施設で看取るということ:甘利てる代、三二書房、2007

 一冊目の『なぜ老人を介護するのか・・・』は、スエーデンにおける現場検証に基づく社会学的な理論書で、日本の公的介護を発展させたいという熱い思いが込められている。著者は、世界の手本とされたスエーデンの介護事情を検証し、社会学的に考察している。対象となる本人や家族、現場で働く看護師や介護職員が、看取りの意味を考えるためのヒントが隠されているのではないか。

 先進国における老人福祉は、1.自由主義、2.保守主義、3.社会民主主義の三つのモデルに分類できる。イギリスと並ぶ福祉国家スエーデンは第3のモデルとして、現在まで日本における介護のモデルとなっている。しかしながら、社会民主主義モデルはウェーバーの「規律」の理論から考えると、無批判で無抵抗な大衆の服従が「仕込まれてること」への危険が潜んでいることを忘れてはいけない。こうした理論を冷静に見つめて、わが国の医療保険や介護保険における問題点を分析し、今後の発展に貢献できるのではないか。

 本書の出版からすでに10年近く経ち、日本でも公的介護は急速に拡大している。今、最大の課題は、年間90万人にものぼる老年者の看取りである。著者は第三部で「日本とスェーデンの生と死」というタイトルで、日本の伝統的世界観をスェーデンの世界観と比較し、両国の違いを明らかにしている。日本人の間に根強い「祖先崇拝」と、西洋各国で同様な宗教を消滅させたキリスト教の「人格崇拝」との違い、また、日本の伝統的な「家」の概念はスェーデンや西欧各国のような「国家の家」という考え方とは大きく異なっている。

  「人格崇拝」は個人主義、無縁社会につながるので、キリスト教のような普遍的宗教の思想や、教会を中心とする人間関係を必要とする。著者はこうした異文化における複雑な事情を分析し、日本人の世界観と社会福祉との融合を試みている。

 次回の独書コーナーでは、二冊目の本から日本における看取りの実情を検証する。 [KK.HISAMA,2013.6]

介護と看取りの理論と実践:平穏死について  

 はじめに

 2010年の国勢調査では1912万人という巨大な人口が「老後の世界」に入り、2000万が目前に迫っている。中でも戦後のベビーブームで生まれた団塊の世代である60年代の人口は:61歳226万、62歳224万人と年代別人口のトップ。高波のように押し寄せる老年人口、彼らの医療・介護に関連した書が多数出版されている。2013年度の読書コーナーでは、介護とその先にある看取りについて、読者が個人的見解をもてるように、理論と実際について幅広く述べることにする。 初回は「平穏死」をキーワードとした一般書を2冊紹介する。
 
「平穏死」のすすめ:口から食べられなくなったらどうしますか:石飛幸三、講談社、2010
「平穏死」という親孝行;親を幸せに看取るために子どもがすべき27のこと:長尾和紘、泰文堂、2013  他に「平穏死10の条件」、「胃ろうという選択」がある。
 
1.『「平穏死」のすすめ』著者は、1970年代、若き血管外科医としてドイツで修行、東京の大病院の外科医・病院長を務めてから退職、都立の特養で常勤の医師として5年間働いてから執筆した。施設入院者の90%は痴呆症の最終段階に到達した方々で口から食べられない状態である。施設ではじめて胃ろうをつけた患者の現実を見たときの気持ちは「言葉では言い表せない」ほど、「手術をして命を助けた方々と同年配の方々の変わり果てた姿・・・幾多の苦難に耐え、それを乗り越えた人生、その果てにまたこのような試練に・・・」と延命医療の理不尽な思いを述べる。内容は、患者や家族の苦悩を和らげるための行政との戦いや、自分たちが施設で行った改革事情に言及するが、著者が訴えたいのは「平恩死」である。科学万能主義、医療への過信とその裏にある人間喪失を指摘し、自然死を知らない医師や一般人に平穏死とはどういうものか語っている。それは水分も食べ物もなくても体が死になじんでいくゆるやかな、自然な過程である。

 

2、『「平穏死」という親孝行』の著者は高校生のとき父の自死を経験して医者を目指した。阪神・淡路大震災の半年後に開業、以来17年、「個人がうごかなければ、世の中は変わらない」という使命感をもって、700人以上の看取りを行っている。親がいくら「平穏死」を望んでも叶わない現実があるのは、子が終末期医療の誤った思い込みから延命医療を親孝行と思い、「親の最期を邪魔している」からだと言う。
親を看取るのは子の責任であり、医者は家族の指示に従うだけ。看取りの町医者だからこそ言える“子どものあなたに今すぐ伝えたいこと;平穏死の意味、平穏死のための実践行動である。最も重要なことは親の意志を確認しておくことであるが、できない場合も多い。その場合、家族が実践すべきこととして、最期の場所、医師・看護師の選択に加えて、費用、危篤のときの対処法など詳細に述べている実用書である。すぐに救急車をよばない、警察に連絡しない、最初の連絡はあくまで在宅医・看護師である。
 
コメント
アメリカでスタンフォード大学の医師による同様な書が出版されたのは1995年であった。当時は衝撃的な本であったが,20年近く経った今、アメリカではホスピスが広く浸透していることもあり、本人や家族の希望があれば、あらゆる患者・高齢者の「平穏死」がホスピスで実現されるようになった。日本でもホスピスが次第に浸透しているが、ほとんど、がん患者に限定されているようである。次回からは、自宅・病院・ホスピスに代わって、施設で行われている高齢者の介護と看取りについて、理論と実践の書を紹介する。[KK.HISAMA 2013.5]

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