第3回:幸せを約束する歯科医療:後編

第3回:幸せを約束する歯科医療:後編

 予防を重視する国民のための医療や歯科医療を日本で実現したいという夢を持って、私は一九九五年国立大学の保健学科の教員に就任した。健康な私が最も困ったことは、序章で述べたように、日本の健康保険制度では予防歯科がきわめて困難なことであった。前編では筆者の国際的経験から予防歯科医療について述べた。後編は予防歯科の理想に到達する過程で必要な高度歯科医療と、多職種チームによる口腔ケアについて述べる。

歯科医療の神様

 私の三番目の単著となった『医療の比較文化論:その論理と倫理を求めて』が出版されたのは、帰国してから八年後であった。この著書の中で歯科医療について書いた部分がある。間もなく読者だったある歯科医の紹介で、私は、ニ〇世紀の前期にアメリカの予防歯科発展の礎を築いた医療の神様パンキー博士の原著A Philosophy of the practice of Dentistryを読むことができた(*1)。日本の歯医者たちは、少数ではあるが、パンキー哲学を学び、医療保険の壁にもひるまずよい医療を実践していることを知った。彼等の中には、フロリダのパンキー研究所で学んだ人も少なくない。

 アメリカオハイオ州にあるメデカルカレジ出版会が発行したパンキー博士の著書は、大きく二つの内容に分かれている。一つはすぐれた医療技術であり、もう一つは職業人としての生き方である。博士が開発した技術は、当時の最新技術だったと思われる。高度の技術を磨いた職業人が必要な哲学は人間愛の精神である。この精神によって、パンキー博士は、歯を抜くことが主な仕事だった二〇世紀初頭のアメリカの歯科医療を根底から変えることになったのである。

 アメリカで医業は家業ではない。パンキー博士は一九二四年に大学で歯科の勉強を終えてから、ケンタッキー州の小さな町で、引越しする医者から医院をゆずってもらった。大学を卒業して駆け出しの歯医者だった頃、抜歯の技術にたけた息子にある日イリノイ州に住む母から手紙が届いた。母は、最近になって全歯を抜かれた入れ歯をしたことについて「これこそ私の人生で最も悲しい出来事・・・」、「お前は患者さんの歯を抜かないでおくれ」と懇願した。美人の母は当時まだ四ニ歳で八二歳まで生きたが、歯を無くしてからは本当に幸せな日は一日とてなかったと言う。母の願いは、当時の医療技術において、また、田舎の歯科医院を経営する上で、インポッシブル・ドリームであった。それを克服したのは、予防歯科医療への情熱を与えてくれた母の願いを実現したいという強い信念であった。

 その時から、誰かの母であり父である患者さんの歯を抜く気持になれなかった。やがて、パンキー博士は、最初に開業したケンタッキー州の小さな町からフロリダ州へ移り、歯を抜かない歯科医療を始めた。そこで出会った裕福な老婦人の援助で、彼はフランスの歯科学会に出席し、最新の歯科技術を学ぶためヨーロッパへ船旅をした。帰国して仕事を再開したが、それは長い年月に渡る苦しい予防歯科医療への旅であった。やがて、パンキー博士の技術とリビング・フィロソフイーは、歯学部や生涯学習の中で学ばれて、アメリカの歯科医療を改革していった。第二次世界大戦後に始まった豊かな経済力と、ハリウッドに起きた映画全盛時代がもたらした自然歯への関心が追い風となり、パンキー博士の夢は豊かな中産階級を中心に実現したのである。

高齢社会が求めるハイテク歯科技術

高齢社会における予防歯科は、平行するハイテク歯科技術が必要である。日本の歯科医療もこうした情勢に目をつぶってはいられない。すぐれたセラミックの技術など、技術大国日本の歯科医療は世界に貢献できる分野である。今では、日本でも渡米当時の私が見たこともなかった歯並びの矯正が目立つようになった。その一方、今から四十年も前にアメリカで時代遅れとされたむし歯を削り金属を被せる技術が、医療保険によって堂々と実施されている。

ハイテク歯科医療の経験

 大学時代からむし歯が多かった夫は、アメリカで歯科医療を受け、年一回の歯科衛生士によるクリーニングのおかげで、四十年以上経っても渡米したときの自然歯を維持している。歯科医療は金属をかぶせるのでなく、根幹治療によって自然歯を保存し、欠損した歯はパーシャルと呼ばれるセラミックが使用される。ハイテク歯科医療は誰でも必要をするものではない。医者・歯科衛生士と患者が協力する予防歯科によって、人々は自然歯を生涯維持できる。アメリカで、歯科予防は保険がカバーする場合もあるが、治療は全て有料である。人々の意識改革がないと、小児から高度歯科医療を必要とする。

 実は、最初の歯科検診で長女の臼歯が虫歯となって抜歯が必要であることがわかった。その処置について歯科医は真剣に説明してくれた。抜歯をすると永久歯が正しくはえないので、それまではリングと呼ばれる金具「スペースメインテーナー」が必要であるという。その費用は留学生の夫が助手をしていた頃、一ヶ月分のサラリーの半分くらいだったろうか。一生大切な歯の健康を考えてどうにか費用を工面した。

 長女はオレゴンに住んだ四年間、毎年一回、その歯科医の検診を受けた。大男で青い目の歯科医は子どもたちにいつも予防歯科を教えた。「おやつはりんごやにんじんにしなさい。お菓子は食事の後だけ、食事の後は歯磨きをしなさい。」長女は彼の真剣な青い目がこわかったと彼の言葉に従った。長女がそのリングをつけたまま、一家で博士課程を修了した夫の就職先イリノイ州に移動した。それから二年後、ついにリングをとる日がやってきた。オーソドンティスト(専門医)は陽気な人だった。
「見事な歯並びだ。大きくなったらミスアメリカになるよ」
そういって長年口腔内のリングと共に生きた長女をほめてくれた。大陸を隔てる二人の歯科医による高度歯科技術のリレーによって、長女は見事な歯並びをしている。それは私にとっても忘れられない日となった。

口腔ケアのヘルスプロモーション

 ハイテク歯科医療を支えるのは口腔ケアによるヘルスプロモーションである。私はアメリカの修士課程で訪問看護の実習をしたが、口腔ケアやフットケア(足の爪など)は、レジスタード・ナース(RN)の責任のもとに行われていた。日本でも在宅医療が広がるにつれ、合わない入れ歯や歯周病の問題の深刻さが意識されるようになった。日本の歯科医療には保険が適用されるので、歯医者の訪問を受けることはクライエントの特権といえる。高度な福祉国家であるイギリスや北欧諸国でも、歯科医による家庭訪問が行われている。しかしながら、毎日必要な口腔ケアは訪問看護師とヘルパーや家族が主体的に実践する。

 高齢者は入れ歯の人が多く、合わない入れ歯は大きな問題である。入れ歯を支える歯茎の骨は絶えず変化しているので、よく噛むことが必要である。入れ歯の技術がどんないよくても、毎日の咀嚼や口腔ケアがなければ入れ歯は合わなくなる。保険でどんどん新しい入れ歯を作るのではなく、よく合う入れ歯を作る技術と口腔ケアによって解決すべき問題である。

 イギリスでは、口腔ケア専門のデンタルナース、デンタルセラピスト、デンタルハイジニストが活躍している。イギリスにおける口腔ケアのヘルスプロモーションは、一九世紀の中葉にさかのぼる。リバプールで世界に先駆けて鉄道を開通、世界初の産業国となったイギリスでは、急速な都市化と貧民層の劣悪な衛生や健康が大きな問題となった。母親と乳児、学童の口腔ケアは公的な事業として無料の治療が必要であった。その大部分は医者以外の歯科医療補助者が対応した。

 この伝統は、現在イギリスの口腔ケアチームメンバーであるデンタルナースやデンタルセラピストに受け継がれている。デンタルナースはイギリスの植民地であったニュージランドやオーストラリアで発達し、母子や学童の歯科疾患の治療において大きな権限をもっている。しかし、二〇世紀の半ばからは、水道水フッ素混入や学童の歯に塗布するシーラントの普及によって、治療の必要性は減少しデンタルナースの役割は変化している。高齢社会において彼等の役割がどうなるのかは興味深い点である。

予防歯科医療の普遍性と医療保険のあり方

 歯の健康はその国の医療レベルを如実に表している。北朝鮮で生活した人々を初めてテレビで見て、まず目に入ったのは彼等の歯が示す劣悪な歯科医療であった。一方、アフリカの人々の歯は白く頑丈である。それは食習慣や若い人が多いこともあるだろう。ケニアから日本に留学していた助産師の話では、歯医者の数は極端に少ないが歯の問題は少ないという。ケニアでは病気の場合も予防を重視し、日常の病気はほとんど地域の住民が協力して対処する。先進国のような医療保険のない発達途上国では、身体の健康はもちろん、歯の健康も予防を大切にする。このことは医療費をめぐって関係者の間に利害がない場合、予防の重要性を語っていると思う。私が十三年前に歯科医療について書き始めた手書きの原稿に次のような一節があった。

WHOの歯科部長であるバームス博士は2025年の歯科医は歯をけずる回転切削器具など不要になるし、歯を弱める歯石は薬によって予防されるのでとる必要もなくなるといっている。歯科医の教育も治療より予防のための患者教育に変わるので従来の歯科学は無用になる。しかし、高齢者が激増している今日、歯の寿命と命の寿命の違いが大きいのでその方の技術の進歩が望まれるのではないか。

 医療保険によって歯の健康が守れる国民は幸せである。しかしながら、載積している医療問題の山崩れは歯科保険制度壊滅へ進むかもしれない。防止策は予防を重視する家族医制度であると思う。むし歯や歯周病などの疾患の後始末をする医療ではなく、乳幼児から一貫した予防歯科を推進できる歯の家族医が必要である。一般医療と異なり結果が明白な歯科医療では、家族医制度が機能する可能性が大きい。国民健康保険は一家皆全員の歯を守る家庭医に適用し、専門医によるハイテク治療は自費か独自の保険を選択してもらうとよい。

  • 歯の家族医と専門医が支払われる医療費は、登録するクライエントの年齢や歯の健康状態、医師の歯科技術のレベルによって計算される。
  • 保険による医者の報酬は契約者数によって、_搬欧阿襪漾別だ年の場合)、∪年期・個人、O掲期・個人による第一次分類、歯の健康状態による治療の必要性による第ニ次分類の両方によって支払われる。
  • 家庭医は契約によって登録者の予防歯科と単純な治療を無料で行う。
  • 家族歯科医はクライエントと予防計画書を作成し契約を結び予防教育の責任者となる。
  • 自由診療は、選択するクライエントの自己判断で行われる。

 歯科医療の民主主義を実現するためには、口腔ケアの「選択肢」をクライエントに与え、彼等に予防歯科の重要性を意識してもらうことである。これができないならば、先進国の国際水準からかけ離れた歯科医療が永遠に続くか、アメリカのように歯科医療を保険から除外することになるか、のいずれかであろう。


*1 Pankey, L.D. & Davis, W.J. A Philosophy of the Practice of Dentistry. Toledo, Ohio: Medical College Press, 1987.

©2015 athena international research institute.