第2回:日本人の民族性と医療 後編

第2回:日本人の民族性と医療 後編

葉隠」に学ぶ感性と知性

『葉隠』が書かれたのはおよそ三百年前のこと、武士・山本常朝(以下常朝)が口述し、田代陣基が筆録した。常朝の意志によって原本は死後焼却されたが、写本は秘密書として佐賀藩の武士たちの間で読み継がれていった。全十一巻に渡る大書は、単なる武士の心得を超え、生活を導く思想と実践への深い洞察が見られる。有名な新渡戸稲造の『武士道』は、ヨーロッパで一人の学者から日本の道徳律を聞かれ回答できなかったことをきっかけに、西洋人のために書かれた武士道の英文書であった*1。一方、常朝(じょうちょう)は、子どもの頃から死ぬ日まで、鍋島藩主に誠心誠意仕えた真の武士であった。著書の内容は、徳川幕府が安定した元禄時代に広がった人々の物質主義を憂い、武士の生き方を教えるものであった。自分が仕えた鍋嶋藩主はもちろん、同じく藩主に仕えた祖父や父や親族や同僚から見聞するなど、日々の生活の中で武士道を学び実践した本物の武士の講話である*2。

『葉隠』から学ぶものとして井口 潔は、感性の重要性を挙げている*3。国立大学で科学的な医学の頂点を象徴する外科学の教授であった井口は、後に佐賀の地に勤務することになり、はじめて『葉隠』に接した。同じくイタリアの外科医で、後にWHOの指導者となったS.ディ教授も佐賀を訪問してから『葉隠』に感動した*4。彼等は科学者として、『葉隠』の中に現代人に欠けている感性の極限を見出したのである。

感性と知性

人間が繁栄し続ける三条件は、個体の保存、種の保存、精神の発達である。個体と種の保存には安全や健康が重要であるが、精神の発達において人間の精神機能である感性と知性のバランスを考えないといけない。知性は心理テストや学習テストなどで測定できるが、感性を構成する情・意・芸術・道徳・宗教などの客観的測定は不可能に近い。そのため、現代の価値観は知性優勢で感性はあまり重んじられない。感性と知性を対比すると表1−1と1−2のようになる。

表1−1

感性 知性

内省的――エッセンス
測定できない
高尚
時空を超越する
時代が変わっても不変

外向的――エゴ
測定できる
実利・実用的
現生・現実的
時代とともに必ず変わる

注:井口 潔:『葉隠』ニ一世紀に生きる知恵:人間科学の立場から

人間の大脳は左右両半球に分かれる複雑な機能は調和されなければいけない。大脳の重要な機能を感性と知性とするならば、やはり両者のバランスが必要である。心の問題は、知性優位、感性軽視の風潮によって人間の「精神の発達」におけるバランスが阻害されて起こる結果と考えられる。感性は脳の発達がめざましい新生児から乳幼児ほど重要であるが、病苦や死に直面する高齢者にとっても重要な課題である。

表1−2

感性 知性

副交感神経的
精神的、修復的
微妙で情感的
驚嘆、宗教、倫理
癒すこと、熟考、沈思
感得、有徳
制御機構的
日本語の真、善、美に対応

交感神経的
攻撃的、動物的
怒りと恐怖からの対応
戦いか、逃避か
緊急動員的
自制のきかない、散漫的
緊急対応的

注:井口 潔『葉隠』ニ一世紀に生きる知恵:人間科学の立場から、S.ディ所論に基づく

私を捉える『葉隠』の魅力

私が葉隠という言葉を最初に聞いたのは、佐賀県生まれの夫と結婚してからであった。何か現実には遠い昔のミステリアルな佐賀の武士という印象を受けた。今から考えると葉隠の精神は、私の幼少の頃からある程度毎日の生活の中で父から教わっていたし、決して平坦でなかった人生を支える信念であった。私は日本がまだ貧しかった時代に、米国政府によるフルブライト留学生の妻として渡米した。言葉や経済事情はもちろん、異文化における辛苦の毎日を生きる心の支えとなったのは、正義とか忠誠など幼少の頃から生活の中で学んだ武士道の価値観であった。

アメリカで三〇年過ごしてから、日本の大学で教えるために帰国した私の研究課題の一つは、日本人のスピリチュアリティーであった。その過程の中で新渡戸稲造の『武士道』を読んで大いに感激した。エール大学でも講演の機会を得て日本人の精神として武士道について話した(*5)。そして帰国してから一ニ年後、大学教員の仕事に終止符を打って夫の故郷である佐賀に引越した年、佐賀県代表の佐賀北高校が甲子園でニ五〇〇校を制覇して全国優勝を果たした。公立高校の時間や経済的な制限の中で、強敵を次々に倒した快挙に町中に興奮がみなぎった。若人たちの快挙に人々は脈々と流れる葉隠の精神を感じたのである。

その興奮が落ち着いてやがて秋がきた。長年の念願だった研究所を設立し、ホームページの企画をしたとき、私は佐賀の魅力を世界に発信しようと考えた。研究所の理念から、葉隠の研究が大きく頭に浮かんだ。葉隠は日本人の価値観とか倫理の基本と生活の知恵を教えてくれる。それらは本から学んだものではなく、常朝が幼少の頃から毎日の生活で会得し、誠心誠意実践した所が他の著書と大きく異なる。

市の図書館にはたくさん資料があり、葉隠ゆかりの史跡も多い。今から一六年前に葉隠に興味をもつ国際的な学者を招待した国際シンポジウムが開催され、葉隠に関する講演や学習の機会も少なくない。

葉隠の神髄:四誓願

心の問題が盛んに議論されている。専門家によるカウンセリングや心理療法によって、一時的な効果は見られるが本当のキュアではない。長期持続するキュアは、本人の心から湧き出る信念や信仰によるものであり、多くの人々にとって宗教やスピリチュアリティは大きな意味をもつ(*5)。現代人の知性を補う感性を教える葉隠こそ、多くの日本人に精神的な強さを与えてくれると思う。初期の葉隠研究は、佐賀の貧しい武士や明治時代の国民教育携わる教員たちが私財を投じて行った。今では多数の著書や研究論文が紹介する葉隠の神髄は次の四誓願に凝縮される。

  1. 武士道においておくれ取り申すまじき候
  2. 主君の御用に立つべき事
  3. 親に孝行仕えるべきこと
  4. 大慈悲を起こし、人の為になるべき事

 

常朝は「我ひとりして御家を動かさぬとかからねば、修行はものに成らざる」として、この四誓願を毎日仏神に念じるなら、少しづつ先へ進むも、後へはしらざるものという。これら四誓願は人間の生と死に直面する医療に関わる職業人のために解釈してみた。

  1. 医療における「おくれ」は二つの意味がある。一つは患者の症状で、救急や急性の場合は刻々と変化する。抵抗力の弱い乳幼児も速度が早く危険性が大きい。このため、アメリカではインターンの医師は三六時間の勤務を続け、病状の変化を観察する教育を今も守っている。もう一つは医学の進歩である。小児のための医学情報を『育児の百科』にまとめた松田道雄は、英米の主要な医学雑誌を毎週読んで最新の知識を得て毎年改訂したという。
  2. 「主君」を生活者である患者と書き換えて仕えるなら、よい医療が行えるであろう。
  3. 日本人の宗教の根底にあるのは人々とのつながりや祖先崇拝である。子を思い一生懸命に育てた親こそ神様にひとしい。忙しい毎日の中で親を思うことは、他者への「思いやり」の心を養う。また、一人ひとりの患者が誰かの親であると考えるならば、誠心誠意に働くことができるのではないか。
  4. 仏教の慈悲、キリスト教の愛こそ、病む人の苦しみを理解する医療の原点である。

 

葉隠の有名な言葉と解釈

ITの出現やパソコンの普及による情報革命がもたらした第三国際化の中で、佐賀の葉隠研究会は、国際シンポジウムを開催、一般人のために『葉隠の道しるべ』(*6)という小冊に有名な言葉がまとめられている。いくつかの言葉を選択し解釈してみた。

  • 武士道とは死ぬ事と見付けたり。・・・【解釈】死ぬ覚悟をもって任務に尽くす葉隠武士の決意の行動原理を表現している。瀕死の経験をした人や真摯に生きようとする高齢者にふさわしい哲学である。戦いに挑む武士と生死に直面する職業人の気構えを表現している。
  • 恋の至極は忍恋(しのぶこい)と見立て候・・・【解釈】自分の胸の中を相手に打ち明けず相手に心から尽くす隠し奉仕である陰徳は、常朝が重んじる「陰の奉公」に相通じる。西洋では愛の情熱を芸術や仕事に「昇華する」思想がある。毎日、患者の裸体に接する職業人にとって、倫理を守るために大切な考え方である。
  • 大事の思案は軽く小事の思案は重く・・・【解釈】大事ならば日頃から万全の準備をしているので、その場に臨んでは簡単に態度を決められるべきもの。大事は良心的な外科医が手術において迷うことに似ている。日頃の覚悟が不足すれば、その場に臨んで簡単に判断をつけることができないので過誤につながる。
  • 先ずよき処を褒めたて、気を引き立つ工夫を砕き、渇く時水を飲むように請け合せ疵直るが意見なり。【解釈】その人の良い点をほめて元気をださせるように気を配り、受け入れる気持をもったところで欠点をなおす。人間関係が大切な医療の世界では重要である。
  • 勝つといふは、味方に勝つ事なり、味方に勝つといふは、我に勝つことなり、我に勝つといふは気を以て体に勝つことなり。
  • 人間一生誠にわずかの事なり。好いた事をして暮らすべきなり。夢の間の世の中に好かぬ事ばかりして苦を見て暮らすは愚かなことなり。このことは悪しく聞いては害になること故、若き衆など之は語らぬ奥の手なり。我は寝ることが好きなり。いよいよ禁足して寝て暮らすべきと思うなり。【解釈】仕事一辺倒でない常朝の幅広い人間像が浮かぶ。しかし、怠慢のすすめではない。イギリスの医者やナースは頻繁にホリディーという休暇をとって旅行にでる。ストレスを蓄積しないで豊かな人間性を保つ知恵であろう。
  • 大酒にておくれを取りたる人数多(あまた)あり。残念のことなり、・・・。酒座にては気を抜かず、思わぬ出来事ありても間に合う様にありたし。又酒宴は公界ものなり、心得べき事なり。酒に酔いたるときは早く根たるがよきなり、等。」【解釈】ストレス発散に酒を飲む習慣が多い。常に緊急の可能性をもつ医療人には役立つ。
  • 只今が其の時、其の時が只今也。【解釈】この瞬間を生きる、葉隠の名言「武士道とは死ぬ事と見付けたり」に相通じる。


*1 Nitobe, I. Bushido: The Soul of Japan. Charles E. Tuttle Company, Rutland, Vermont, 1969.
*2 山本定朝:栗原荒野篇著、校注・葉隠、青潮社、1975
*3 井口 潔:『葉隠』ニ十一世紀に生きる知恵―人間科学の立場から、葉隠研究会篇:いま、世界に生きる葉隠、葉隠研究会、1992,21-41.
*4 Day, Stacey B. The wonder of Hagakure viewed from the western cultural perspective. (In) 葉隠研究会篇:いま、世界に生きる葉隠、葉隠研究会、1992,82-98.
*5 Hisama, K.K. Cultural differences in ethics and spirituality. Office if International Affairs, Yale University. 2003.
*6 葉隠研究会篇:葉隠の道しるべ、葉隠研究会、2005.

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