第2回:日本人の民族性と医療 前編

第2回:日本人の民族性と医療 前編

 最近の報道によると、心の病は三人に一人で「こどもから高齢者まで身近で深刻な新たな"国民病"」であるいう*1。本当だろうか、「心の病」は漠然とした概念であるため、その実態の把握が困難である。この点、本セミナーの序章で述べた歯の疾患と異なるが、どちらも日常生活に密接に関連しており、健康に影響するという共通点がある。本セミナーでは、そうした共通点の源である日本人の民族性について考えたい。

 医療の民族性に関して大きな話題を呼んだのは、現場踏査によって、英・米・独・仏という西洋先進国において診断から治療まで大きな違いを発見した著書「メディシン・アンド・カルチャー」*2であった。それは、一九八八年に出版されたベストセラーで、その後のアメリカの医療に大きな変化をもたらした。著者リン・ペーヤーはジャーナリストであり、初めから四カ国の医療を比較しようと思ったのではなく、たまたま取材先のフランスで病気になり、アメリカとの違いに驚いたことがきっかけであった。彼女が一人の生活者であり、外国語に堪能であり、医療の現場を回って内側からの情報を得たので、その成果は大きかった。なぜなら、各国における医療は基本的には閉ざされた世界であるため、国際的な比較はなかなか困難であるからだ。

 日本は明治時代の初期に西洋医療を正式な医療としながらも、今日まで江戸時代に完成した開業医制度を維持しているので、依然として固く閉ざされた世界である。言葉の壁も厚く、生活者としての視点から外国の医療と体系的に比較した例は少ない。本セミナーでは、健康と医療に関連する日本人の民族性について国際的視点から比較文化的に述べる。今回は、戦後いち早く米国政府の資金による渡米第した精神科医・土居健郎が、日本人を計るものさしとして開発した「甘え」理論を中心に述べる。次回は、今から三百年前、徳川幕府の最盛期に、庶民の間に浸透していった物質主義と平行して退廃していく武士の姿を憂う武士・山本常朝の倫理書『葉隠』を考察する。

「甘え」の概念

 「甘え」の理論は、土居が着想してからニ○年という長い年月をかけて、国際的な臨床経験、精神分析、学会発表によって磨かれた成果である。西洋の学問を輸入し続けた日本人にはわからない苦労が多く、それは日常語をどう学問用語にするのかという過程にも伺われる。例えば、輸入した学術用語しか知らない人は、学問が育った西洋ではそれらの言葉が日常語だったことさえも気がつかないで、用語の一義性だけを考えてしまう。「甘え」と他の関連する概念を表現する言葉は、日本人が日常使う言葉でありながら、学術用語のように特定の意味をもつという事に留意してほしい*3

 「甘え」は人間一般に共通する心理現象を表現するが、言葉は日本語に特有である。西洋の発達理論では、幼児期以降は個人が独立していく過程で「甘え」は望ましくない現象であり社会生活において重要な概念ではない。一方、甘えは日本人の精神構造はもちろん社会全体が甘えによって浸透されており、子どもから大人までの社会生活の規範となる重要な概念である。土居は「甘え」の概念を中心とする意味の世界こそ日本人心理の実態であるとしている。それ故、医療問題を改善するために、我々は甘えを否定するのではなく、正しく理解することから始めなければならない。

 最初に、土居の『「甘え」の構造』から、日本人に特有な甘え現象を表現する言葉を整理してみよう。

 甘えの定義:「甘え」は他者に接近し相手と一体になりたいという感情であり行為である。甘えの心理は、本来は個体として分離すべき事実を否定し、受動的愛情を求めることである。乳幼児だけではなく大人にも見られる一般的な現象である。

 義理と人情:人情は甘えの核となる感情であり、人情と義理とは持ちつ持たれつの関係にある。人情は親子や親しい間柄に自然に発生する。一方、義理による関係は人情が起こる関係の中に存在する。だから二つは対立する関係でなく人情の中に義理が存在する。例えば、人から情けを受けるとき、恩を感じ心理的負い目が生れる。これを契機にして義理が意識される。「すまない」の思いは義理の関係が多い。義理も人情も甘えに深く根ざしているので、人情は甘えの肯定で甘えの感受性を奨励するが、義理は甘えによって結ばれた関係を維持・賞揚することである。このメカニズムによって、日本の社会は甘えが浸透し社会システムとして機能しているのである。

 他人と遠慮:他人とは一般的に自分に無関係な人であるが、親子・兄弟や親戚・夫婦も他人になり得る。実際には親子のきずな、特に母と子のきずなは分かちがたい。人情のない義理だけの関係もある。すべての人が義理も人情もない自分と無関係な他人となったとき、人間とは言えないであろう。それは人情も義理も及ばない砂漠のような不毛の土地のようなものである。遠慮は人間関係を知る尺度とも言える。親子のような一体的な関係ではないが、親友は遠慮しない関係に発展できる。遠慮の同義語は「気がね」「こだわり」がある。不思議なことに、自分は遠慮なくふるまいながら、他人は遠慮してもらいたい人が少なくない。外来語であるプライバシーは、遠慮の価値を社会の規範とするもので、日本には発達しなかった概念である。

 内と外:人間関係において遠慮があるかないかが内と外の目安である。とはいえ、身内には遠慮しない一方で、赤の他人や見知らぬ土地の人にも遠慮しない。遠慮は礼節につながるので望ましいが、内で甘えて遠慮しない人は他人にも遠慮しない態度がしばしば見られる。それは甘えの現れとしての「食う」「なめる」などの行為に表現される。銀行や店舗で経験することだが、自分に有利か不利かによって客に対する言葉や態度を一転する人がいる。毎日のように新聞をにぎわす不祥事件の多くは、甘えを根底にした公私混同が根底にあるようだ。これは、公的な役割を担う立場にありながら自分や身内の利益のための行為である。社会の基本であるべきパブリックの精神の欠如が社会へもたらす害は計りしれない。西洋の規範は、一方に集団を超える個人の自由の精神がありながら、他方に社会の利益を重んじるパブリック精神を重視する。

 同一化と摂取:甘えによる同一化が起こるのは、内と外の関係において、もし見知らぬ他人が脅威を与える場合は事情が一変する場合である。日本が外来文化を取り入れ取り込んできたのは甘えの心理であり、それによって世界的な経済大国に成長した。そうした摂取は甘えの心理であり、外来文化の摂取においても甘えは侵してはならない重要な条件であった。明治の指導者はキリスト教を信仰し精神的な土台としたことで、留学や外交で有利になった人が少なくない。しかしながら、甘えが許されない武士道の精神は、西洋の新教徒精神と呼応するものである。初めは英語で出版された新渡戸稲造の「武士道」は、日本が欧米の政府から信頼される要因となり日本の国際社会における地位の確立に大きく貢献した。

 罪と恥:この比較は有名な「菊と刀」のルース・ベネディクトによるもので、日本研究者がおおかた承認している。日本は恥の文化を代表するもので、罪の感覚は武士道などの例外はあるがあまり深刻でない。なるほど外国に比較し日本の罰則は軽い。私が帰国していち早く気づいたことは、図書館の貸し出しに伴う罰金がないこと。アメリカでは公立図書館が早くから発達したので、罰則は貧しい人々にもパブリック精神を教えるために重要だったと思われる。図書館から本を借りて期限以内に返さないと、子どものときから日割りの罰金を払う。大学になると時間単位の貸出しもあり額が一層高くなる。日本では裁判においても反省の気持ちや謝罪が大きな意味をもつ。このことは、最近問題になっているインサイダー取引における罰則が欧米各国と比較し非常に軽いことでも明らかである。同胞である国民を罰することはできないという人情と、それに甘える心理が働いているものと思われる。一つ興味深いことがある。アメリカで子育てをしていた頃、お母さんたちは子どもが間違いをするとすぐにも「shame on you(恥ずかしいことよ)」と恥の概念を教えることだった。西洋でも、子どもにとって罪は過酷な概念なので、まずは罰則の伴わない恥を教えることから始めるのだろうか。

 甘えのイデオロギー:イデオロギーとは一つの社会の性格を支える思想的バックボーン。「甘え」こそ、長い歴史を通して日本社会に浸透したイデオロギーである。イデオロギーの基礎となるのが宗教である。宗教の基本条件は、それが毎日の生活に生きていることである。日本人の宗教は、アメリカの市民権が誕生によって与えられるのと同じように、日本のある地域に生れたことで自動的にその土地の神社の信者となる。数万年の歴史を持つ日本人の歴史において受け継がれてきた神道は、五百年前からのキリスト教や千五百年前に到来した仏教の中にも脈々と生きている。神道は日本人の遺伝子のようなもので、頭の中で消去できない宗教である。明治の憲法政治の精神的機軸は天皇とされたが、実質的には祖先である。私は、日本人の宗教の本質は祖先と一体感を維持する「甘え」ではないかとさえ考えている。

 新憲法では天皇は象徴として存続しているが、宗教としての「甘え」は、家族制度の崩壊と共に危機に瀕している。家族制度の崩壊は、明治の近代化・都市化によって始まったが、近年になって根強く残る男尊女卑の伝統によって加速されたように思う。男女平等という時代の変化にもかかわらず、日本のことわざ事典は嫁に対する舅や世間の過酷な表現があふれている。女性への差別や苦労については、は新聞の人生相談に垣間見ることができる。企業戦士として働き、子どもの精神的な養育ができない男たちの姿は、戦後のヨーロッパで起こった「父亡き社会」に等しい。甘えを基本とする人間関係の崩壊こそが、日本人のこころの問題に深く影響しているのではないか。

 

「甘え」と医療

 甘えは日本人の心理であり社会規範であり、日常のあらゆる行為に影響する。医療行為における「甘え」は、医療を求める人々、医療を与える人々、医療産業に携わる人々、そしてこれらグループを規制する政策を司る人々の行為など、全てに浸透している。そのため医療問題は、日本人の甘えに由来する根深いものであり、それを解決するために提案されている医者数や医療費の増加だけで解決されるような単純なものではない。医療政策の基盤は医療制度であり、その影響は人々の医者依存や専門性に欠ける医学教育にまで及ぶ広汎なものである。医者が死守する開業医療制度は、長い年月の末に江戸時代に完成されたもので、今日の高齢化・高度医療時代における消費者の利益を主眼とするものではない。

 緊急の問題である高騰する医療費は、高度医療の発達と高齢者の増加による現象から来るもので、第二次大戦後に医療保険制度を確立した先進国に共通の問題である。医療政策は普遍的な医療の理念によって導かれるべきである。医療の理想は国民が必要な最適の医療を最少の費用で速やかに受けられ三つの条件(コスト、クオリティ、アクセス)を満たすことである。医療の三条件の内容とバランスをどう考えるかによって、各国の医療システムは大きく異なる。例えば、国際社会を大きく農耕社会と狩猟・牧畜社会に分類すると、人々が病気を毎日の話題にするかどうかが異なる。農耕社会の人は、病気を恥じてこっそり医者に治療してもらうので、情報がなく自家治療は発達しない。一方、牧畜社会の人は、解剖生理の知識が豊かで、毎日の会話で病気の治療を語り、熱心に自家治療をする*4

 わが国の医療政策は、西洋医療を正式の医療としながら、西洋各国とは異なる日本人の民族性を考慮しないまま進められている。医療費の制限にばかり焦点が当てられ、日本人の心理である「甘え」に配慮していない。その結果、国民は高価な保険料を支払う上に、医療費の負担を三割にまで増加された。それでも、医者も歯医者もよい医療ができないほどの保険料しか支払われないので、国民はよい医療が受けられないという不幸な結果になってしまった。このことは、現行の医療を批判し理想の医療を語る書籍にほどんど指摘していない。

 「みんな一等」*6という逸話がある。みんなでマラソンをやろうとしたら、一人の障害者がいた。それでは障害者が気の毒と言うことになり、みんなが障害者と並んで走り一緒にテープを切って全員が一等になった*5。このお話は、アメリカという競争社会で成人期の大部分を過ごした私の中で長い間わだかまっている。確かに障害者を思いやる心温まる美談であるが、本当は「みんなびり等」の感を払拭できない。根本的な問題は、個性を認めないで、人間の価値を杓子定規で計ることであろう。国民の命をあずかる医療においては大きな問題である。

 巷にあふれる医者の看板とはうらはらに、高度な専門技術をもつ臨床医が過度に不足している。個人開業医ではニ四時間の対応が不可能である。その負担は一部の医者(勤務医)が背負うことになるので、彼等の重労働は想像を逸するものがあろう。西洋では基本的にすべての臨床医が自分の患者にニ四時間対応する。大学の教授でさえ全員が、年間数ヶ月はアテンダントとして入院患者に責任をもち、研修の学生をニ四時間指導するので、必要があれば学生の指導と診療のためいつでも病院へでかける。私の脳裏には救急医療を求めて病院を回る人々や、三五○万人とも言われる薬害で苦しむ方々の姿が浮かぶ。少しばかりの診療費の増加や更なる医者の増加で解決できる問題ではない。

 これらの問題を解決するためには、浸襲的な西洋医療の危険に認識し、その根底にある倫理を実践することが求められる。次回はきびしい西洋の倫理に匹敵する日本人の倫理としての『葉隠』について述べる。これほど洞察の深い書籍が、徳川時代は秘密書とされ、戦時中は利用され、戦後は過激派によってゆがめられ、その結果今でもその真髄を本当に理解する人はすくない。明治時代の指導者達の滅私奉公によって、日本は見事な近代国家を確立した。彼等は毎日の生活の中で、「甘え」のイデオロギーをバランスする武士道の倫理を生きた祖先によって、きびしくしつけられた子孫が多かったのである。


*1前野一雄、展望08:患者と医療現場の懸け橋に、読売新聞、20.1.16、p17
*2Payer, L. Medicine & Culture. Henry Holt & Company, 1996 (1988c). (リン・ペイヤー著、丸山誓信・張友雄訳『医療と文化』世界思想社、一九九ニ年)
*3土居健郎『「甘え」の構造』弘文堂、ニ〇〇七年(一九七一年c)
*4大塚久雄・川島武宜・土居健郎『「甘え」と社会科学』弘文堂、一九九ニ年
*5久間圭子『医療の比較文化論:その原理と倫理を求めて』世界思想社、ニ〇〇三年
*6出久根達郎『みんな一等』朝日新聞社、一九九八年

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