随想文学の古典にみる男女の情愛:枕草子(その3)

随想文学の古典にみる男女の情愛:枕草子(その3)

没落期:前編

 小説という虚構の世界と異なり、随筆は王朝政治の中心人物を描くという困難を克服しなければいけない。中関白(なかのかんぱく)道隆の死に続いた政変期から没落期における中宮と天皇の情愛を描くためには、ミステリー・ライターのような高度な手腕を必要とする。なぜなら、道隆の後継者とも考えられ、中宮定子の庇護者であった兄・伊周と弟・隆家が流罪となり、政治の実権がライバルだった道長に移ったからである。宮廷をでた中宮は二条邸へ篭り、弟・隆家が流罪地に出発した日(995.5.1)、自ら髪を切って出家の意志さえ示したのだった。

 没落期における中宮を支えたのは、一条天皇の変わらぬ情愛であり、三人の御子たちの誕生となった。中宮定子の世界を千年も超えて残すことになった枕草子を、天体として描くという手法を設定してみた。すなわち、栄華期の中宮は天体の中心である太陽のように輝く存在であった。しかし、没落期には太陽の光で照らされる月のように「不思議で不確定な」存在として描かれている。月を照らす太陽の役割を果たす男女とは、また、彼らの間に繰り広げられる情愛に目を向ける読者の背後に隠された一条天皇と中宮定子の情愛とは・・・。
枕草子の奥行きの深さが見えてくる。

藤原斉信の登場

 斉信(ただのぶ)は当代きっての上流貴族、雅やかな外見と教養を備え、道隆の時代から天皇の側近(蔵人)としてしばしば後宮を訪れていた。中宮との取次ぎ役を担う清少納言にとっては特別な存在であったが、女房たちからも尊敬と親しみの念を得ていた。没落期になってからも一条天皇のお使いとして後宮へやってくる斎信は、一年間の喪に服していた中宮と生気を失った後宮サロンを照らす太陽のように輝かしい。

第一二九段 故殿の御ために、月ごとの十日・・・[故・道隆供養の日の出来事]

 毎月の十日に道隆の供養をされていた中宮さまが、九月十日は職の御曹司(しきのみぞうじ)で行った。上達部や殿上人など大勢が参加、清範(若い美男で高い評価を得ているお坊さん)の法話は心に迫り若い女房たちさえも泣いた。供養に続く酒席では詩の吟唱があった。「月秋と期して身いづくにか(秋の月は照るのに月を賞した人は今いずこか)・・・」と斉信が声高く吟唱。清少納言はすぐに中宮さまのおそばに参上、共々にすばらしい吟唱の感激を分かちあう。続く文章では、ご機嫌な斉信が清少納言に「思い出の種」になれるようもっと親しくしてほしいと言う。中流貴族出身の清少納言にとって斉信は身分の違うあこがれの人、二人の関係はどこまで発展するのか・・・。

第一五五段 故殿の御服のころ・・・[真夏の仮住まいを訪れた斉信と宣方]

 中宮が大祓えのため一時的に移った住いは太政官庁の朝所。低い瓦葺きの建物はムカデや蜂もでるほど、しかし、薄さび色の喪服を着た女房たちにとって物見高い場所となった。猛暑で眠れない夜は、毎日参上する殿上人たちと夜もすがら話し合う。やがて初秋になり、中宮さまがお帰りになると、斉信(宰相の中将)、宣方(中将)、道方(少将)などが参上し活気づく。斉信の記憶力や感性はするどく、鈍感な宣方とは対照的。斉信はその年の春、暁に別れを惜しんで吟唱したが、それは七夕にふさわしい和歌ではないかと清少納言に指摘されていた。斉信はその出来ごとを忘れていない。七夕の和歌にまつわる二人のやりとりは趣が深い。清少納言は同じ弧線で生きる斉信への高揚感を経験する。二人の会話は碁の隠語さえ使われ、斉信と仲のよい宣方も仲間に入る。彼らとの交流は、すべて清少納言より中宮さまへ語られ、いっときながらも、中宮さまの深い悲しみを忘れさせたであろう。[2014.1.20]

<主な参考文献>

新編日本古典文学全集18・枕草子:校注・訳・松尾聡 永井和子、小学館、1997
赤間恵都子:歴史読み枕草子・清少納言の挑戦状、三省堂、2013
稲賀敬二:現代語訳・枕草子、学燈社、2006

(その4)へ続く

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