幕末・維新を生きた女:イタリア画壇の花となったお玉

幕末・維新を生きた女:イタリア画壇の花となったお玉

続・維新の女:楠戸義昭・岩尾光代、毎日新聞社、1993

 

はしがき

 幕末から維新へ、日本の歴史が大変革した時代に、ヨーロッパで活躍し世界的な名声を得た一人の日本女性がいた・・・。

 

茶店「花園」での出会い

 ハナは浄土宗の大本山・増上寺を差配する江戸の大家に生まれた。広大な屋敷には木々が茂り、池あり、川あり、庭先から船で海へ。明治になってから父はこの屋敷内に茶店と花園を経営。ある日、縁側で花鳥を描いていたお玉(17歳)にカタコトの日本語で話しかけた異国人がいた。

 当時は、政府の招待を受けて欧米から来日する学問・芸術の指導者が増加していた。お玉の才能を認めたイタリア人も、東京で新設された美術学校の教師だった。やがてお玉はこのイタリア人から洋画を学ぶことになる。

 

イタリア人・ラグーサを生涯の師として

 お玉22歳の明治15年、ラグーサはシシリー島に出来る工芸学校の校長になるために帰国。お玉に水絵と蒔絵の教授になって欲しいと頼む。この学校でお玉は副校長になる。社交界にも溶け込み、7年後ラグーサと結婚。夜学でイタリア語を学ぶ。

 

国際的な名声を得て・・・

 お玉の絵は、ニューヨークやヴェネチアの万国博覧会・婦人部門で最高賞を受賞した。二年がかりで、カルーソー家のサロンの天井に「楽園の曙」を描いたのは40歳の時だった。その頃から20歳年長の夫が視力を奪われ、お玉は夫の杖となって14年が過ぎた。異国でただ一人心の支えだった夫は68歳で他界した。お玉はシシリー島の土になろうと決心した。しかし、亡き夫を想い喪服の日々を過ごしていたが望郷の念はつのるばかり・・・。

 ある日、天井に描かれた絵を発見した一人の日本人がいた。やがて新聞記事から小説に・・・。すでに73歳で日本語を忘れたお玉は夢にみた故国へ。一族の善意に支えられ、再び絵筆を執り続け79歳で亡くなった。[KK. HISAMA 201

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