日本の総合文化を伝える書・茶の湯

日本の総合文化を伝える書・茶の湯

茶の湯と日本文化:飲食・道具・空間・思想から、 神津こうず朝夫あさお、淡交社、2012.12

 

はしがき

 世界中の人々はお茶を飲む。お茶と茶碗があれば可能な生活習慣を総合文化に高めたのが「茶の湯」である。茶の湯の歴史は、奈良・平安時代、鎌倉時代は禅の思想による『侘び茶』の発展、幕末の武家政治崩壊と明治以降における変転まで多様である。本書は「日本文化のあらゆる要素が詰まった」茶の湯の側から日本文化をみつめなおしている。

 

『茶経』に始まる茶の湯の歴史

 最初の本は唐の時代、陸羽(733-803)が持ち帰った『茶経』だ。茶樹、茶の製法と飲用法、茶道具などくわしく書かれている。茶の湯の成立と発展は、鎌倉時代のはじめに栄西(1141-1215)が薬として中国から持ち帰った抹茶が、禅宗寺院に普及してからである。栄西は、お茶の効用を『喫茶養生記』に書いている。抹茶が嗜好飲料として飲まれると、日本各地に茶産地が作られ、日本人の間に徐々にお茶を飲む習慣が広がった。明治39年(1906)岡倉天心が出版した“The Book of Tea”(和訳『茶の本』)によって、茶の湯は欧米文化人に広く知られるようになった。

 

侘び茶の創案と発展

 茶会の流れは二つあり、一つは室町時代の遊興・娯楽性の強いもの、他は世俗を離れた生き方を理想とする茶の湯(侘び茶)である。侘び茶は、禅を学んだ村田珠光(1422-1502)が創案したもので、茶禅一味を旨とする。茶道具にも、唐物中心だった茶道具に日本の茶碗を取入れた。やがて町衆の一人だった千利休(1502-1555)によって「やつしの美」を表現する茶室・茶道具・作法を一体とする茶の湯の世界を大成。時の権力者・織田信長や豊臣秀吉に教え、利休は天下一の茶の宗匠と言われた。

 江戸時代前期までの茶の湯は、大名・豪商に限られ、中期から町人を中心に千家系が広まる。江戸末期には、作法が固定した抹茶に対抗する煎茶の作法を定めた煎茶道が漢詩の文人の間に広まった。明治時代になって封建制度が崩壊すると、「女子の教養」と、維新の功臣や財閥関係者(近代数寄者)による「貴紳の茶の湯」として復興した。

 

五感で楽しむ茶の湯

 飲 食:正式な茶会の飲食儀礼は、料理・酒・菓子・茶の順で出される。茶の湯における一汁三葉は、日本人の伝統的な食事である。菓子は古くは果子で本来は果物、どちらも料理の一部で最後に食べてお茶を飲む。

 道 具:中心は茶碗で、中国からの唐物に対して日本製は和物と呼ばれる。茶碗は有形文化財として所有者の移動が激しい。他に、掛物の書・絵、漆工芸、竹工芸などがある。

 空 間:茶室から路地・庭園、そこに置かれる物のすべてを含む。神聖な空間を作る「香」も含まれる。織豊時代の宣教師ロドリゲスは、茶の湯について「市中の山居」として著書『日本教会史』で述べている。

 

茶の湯の思想

 衣食住のすべてが西洋化されて行く現在、茶の湯の思想は日本人の精神文化やアイデンティティを考える上で重要である。室町時代は茶碗などの茶道具は唐物中心であった。それを変えたのが千利休であり、弟子・宗二が最初の茶書『山の上宗二記』を書き残している。

 利休によって派手な唐物から黒い茶碗に象徴される「侘び」「さび」の思想が主流となる。茶室は室町時代の書院造から四畳半と待室(二畳)、床の間に飾る一輪の花などがある。

 

これからの茶の湯

 茶の湯の本質として、茶の修行性「茶禅一味」とか、茶会の芸術性などの可能性がある。茶人(ホストとゲスト)が過ごす楽しい時間を共にする「おもてなしの精神」は、「一期一会」に凝縮されていると思う。公的な場から個人的な茶会で、一度だけの出会いを大切にする緊張感が大切である。[KK.HISAMA 2019.12]

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