死を論ずる先駆的な書:フランス語と日本語

死を論ずる先駆的な書:フランス語と日本語

自死という生き方:覚悟して逝った哲学者、須原一秀、双葉社、2008
La Mori、モーリス・メーテルリンク、1913.(山崎剛訳:死後の存続.めるくまーる、2004)

 

はしがき

 二冊の書は一世紀を隔てて出版され、死に関して時代を先取りした著書である。メーテルリンクと言えば、ベルギー・フランス語圏の詩人・劇作家。不滅の童話劇『青い鳥』(1908)を発表し、5年後に発刊されたLa Mori (1913)は、既存の宗教に囚われないで死を論じている。しかし、キリスト教を真っ向から批判しているために、ローマカソリックによって彼のすべての著書が禁書となった。

 

メーテルリンクの死の思想

 神秘的な劇作家として知られるメーテルリンクの死の思想は、次の最終文に凝縮されているようだ。キリスト教や他の一神教を批判している。

 「いずれにせよ、私は自分の最悪の敵にさえ、たとえ彼の思考が高さと力の点で私の千倍優っていたとしても、人間である彼がその根源の神秘を暴き出し、そして完璧な理解に至れるような世界に永遠に住まわせるほど残酷な刑を科したいとは思わない」。

 メーテルリンクは人間が死を恐れるのは、死を苦しみと連結してしまう「医者と坊主」が悪いのだという。医者は延命によって苦しみを長引かせ、坊主は人間を罪人とか凡夫として苦しめる。病気の苦しみは生の苦しみであり、病気と死とは次元が異なる。

 メーテルリンクの考え方は、何世代にも渡って家畜の病気と死に向かい合って生きているアフリカの牧畜民族の死の思想と共通している。彼らは病気は治る場合も多いし、治らない病気の苦しみは死によって終わることを知っている。死のたった一つの恐怖は未知の領域への恐怖であるとして、メーテルリンクは宇宙や無限の世界にある壮大な神秘に目を向けるように我々をいざなう。

 

葉隠武士道の死の思想

 須藤は無名の哲学者である。年間の自殺者が2−3万人を推移する日本で、自死は稀有な行為ではない。貧しかった日本の歴史は、新生児や老人、武士たちの死で満ちている。西洋でも高齢者の自殺は予想以上に多い。須藤も一人の老人、なぜ彼の著書が話題になったのか。それは、他者がひそかに行なっている行為を、親しい友人に話し、死に向かう自己の気持ちを記録していたからだろう。覚悟できたのは、葉隠武士道があるためだとして遺書のタイトルを『新葉隠』としたことなどがある。

 

おわりに

 『葉隠』の真価が見直され、むしろ生きる勇気を与える書であるとされる。須藤の書は、西洋の学問や哲学に徹しながら、日本人の哲学の真髄を理解できない世代に語り掛けている。他者の死に出会い、深い感動を経験した人々は、自己の人生を誠実に生きた人の最後にくる死は、最も荘厳な瞬間であることを知っている。メーテルリンクが死の次元を追及してからすでに一世紀になる。名作「青い鳥」と同様に読者を神秘の世界に導く不朽の書である。[2009.1. KK. HISAMA]

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