序 章: 宗教のない日本人

序 章: 宗教のない日本人

はじめに

 近代の有名な社会学者マックス・ヴェーバーは、資本主義の精神的な原動力はキリスト教(プロテスタント)であり、宗教をドイツ語のエトス(ethos)、英語でエシック(ethic)としている。日本語訳は「行動様式」とされるが、この訳語からは、あの信心深いB夫人が自らの行為によって私に示してくれた宗教の深さや神聖さは伝わってこない。宗教の本当の意味は、人それぞれが宗教的な生き方の中に発見していくものであろう。

 

宗教を否定する世代

 日本人、特に男性は平然と自分には宗教がないとか、自分は無神論者であると言う。今では毎年延べ二千万人近い日本人が外国に渡航し、多くの人は仕事や勉学のため長期滞在する。外国で言葉も上達し彼等と親しく交流するようになると、ときに「あなたの宗教は何ですか」と聞かれる。このとき、「私は無宗教です」と答える日本人は正直と思っているかもしれない。しかし、宗教の普遍性から言えば、無宗教であることは人間としての存在さえ否定することになる。相互の信頼が重要なビジネスの世界では、初対面の人が無宗教なら疑惑の目で見られる。相手の不信感を誠実な態度でカバーきるかもしれないが容易ではない。 
 もっと困るのは宗教のない日本人が相手の宗教を否定することである。私が渡米して間もなく知り合いになった留学生は、日本のエリートとして将来を期待される人で、R夫人のマンションの一室に下宿していた。未亡人だったR夫人は毎週教会に行く敬虔なクリスチャンで、うっそうとした森に囲まれた広いリビングルームからは美しい夕日が見えた。夕日を眺めながらR夫人が言う。
  「このすばらしい夕日をごらんなさい。神さまがお創りになったのです・・・」窓から見える夕日は、一日の仕事を終えて祈るミレーの絵にあるように、神と人間の交流を思わせた。しかし、科学者である留学生は反対する。
  「単なる自然現象ですよ・・・」
自然の神秘を理解しない日本人を哀れむように、R夫人はこのエピソードを私に話してくれた。
 

日本の近代化と宗教

 宗教を否定する科学者の姿は、すでに明治初期に明らかである。幕末の開国と明治維新によって西洋の学問が積極的に輸入され、中でも西周(にしあまね)が「百科の学」と訳した科学は全く新しい学問であった。西洋の学問に接するようになった日本人にとって、近代宗教の出発点は理性や合理性、実験的精神であった。西洋の思想や学問はキリスト教を基盤とするので、キリスト教徒になる指導者も出現した。彼等はキリスト教の精神によって日本の西洋化を推進したが、多くの日本人はキリスト教徒にならなかった。
 西洋文明の開化から一世紀半が過ぎた今、日本の科学者や技術者はもちろん、多くの日本人は、宗教は理解できない恐ろしい怪物のようにさえ思っている。その背景には神道が政治や軍に利用され、神国日本の思想の下に長い世界戦争に参入したこと、そして二つの原爆による都市の破壊と何十万という人々の死、灰の中から立ち上がる苦しい戦後の経験がある。宗教が恐ろしい他の理由は、戦後、民主主義を誤解する思想や、新しい宗教の急速な発達であった。世紀末に起こったオウム真理教による反社会活動の災禍は、日本人に大きなショックを与え宗教の恐ろしさを一層強化した。
 

宗教のない恐ろしさ

 しかしながら、日本人のこころの問題、それと関連する自殺や虐待は、人間が寄って立つべき信仰がないからという。これらの問題は、終戦後、天皇を頂点とした精神世界のシステムが崩壊して、人々が連携を失うアノミー(無連携)の社会になったことと関係している。日本全体がアノミー状態になり、日本人の精神世界の空洞を埋める一連の活動が興った。アノミーを埋める活動は、新興宗教ラッシュに加えて仕事人間を作る会社共同体、左翼運動、家庭・職場・学校における自由の乱用による暴力や自殺など、子どもにも蔓延している。
(引用)
「人と人とを結びつける連帯(solidarite)が失われ、人々は糸の切れた凧のようになり社会をさまよう。孤独、不安、狂気、凶暴、気弱な人は死にたくなる。いや、死んでしまう。アノミーはどんな病気よりも恐ろしい。」(小室直樹『日本人のための宗教原論』、徳間書店、二〇〇七年(二〇〇〇年初版)三八二頁)。
 

日本人の宗教

 日本人にとって宗教が恐ろしいのは、個人が埋没してしまう無意識な集団性からくると思う。日本の近代化において国民を結束させたのは、宗教を基調とする強い団結であった。同様な結束が戦後の復活において功をそうし、日本は経済大国として見事に復活したことを考えると日本人の宗教は決して消滅していない。それどころか、日本人は「世界で最も強固な宗教」をもっているのに自覚しないだけという論説もある。日本人が自分達の宗教を自覚しない理由はいろいろあるが、一番わかりやすいのはユダヤ人との比較である。
 ユダヤ庶民ひとり一人が宗教を自覚したのは、祖国を喪失したあと、それに続く一連の戦争による結束であった。日本人は祖国を失ったことはないし、四季の美しい自然はイスラム教徒が天国とする「緑園」に近い。もう一つ注目すべきことは、「朝廷・幕府並存」という政治体制である。これは朝廷が祭儀・律令権をもち、幕府が行政・司法権をもつという世界にまれなすぐれた政治形態である。天皇は、馬上で騎士団を率いるヨーロッパに皇帝ではなく、人々の心を統合する宗教的祭祀を行い神と交流する人間である。
 宗教のない日本人はあくまで限られた一部の思想家であるのに、人間形成に重要な教育や家族制度が完全に変更されてしまった。それは人間を超えるものの価値観を認めない人間絶対主義であり、死を考えない現世絶対主義である。個人の自由を謳いながら個別性のない「平等」は、過激な受験競争や拝金主義を増長している。諸外国に比較して日本人の宗教意識が格段に低いのは、宗教の本質を理解しないからであると思う。民族信仰に由来する日本人の宗教は、絶対者志向ではなく寛容である。明治維新を担った三大人物の一人とされる武将・西郷隆盛は、近代戦乱の世を生きた偉大な宗教人であった。次のような言葉を残している。
 
(引用)道は天地自然の物にして、人は之を行なうものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也。人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして己を尽して人物を咎めず、我が誠の足らざるを尋ねべし。
 
 古来、宗教のない社会はなく、心の奥深く信仰をもたない人間はいない。本書では広く世界の宗教を視野に入れて、日本人の深層心理にみる無意識な集団的宗教を実践の視点から考えて見たい。

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