第6回 F. ナイチンゲール:愛に支えられた生涯と偉業[2020.10]

第6回 F. ナイチンゲール:愛に支えられた生涯と偉業[2020.10]

はしがき

フローレンス・ナイチンゲール(FN)の生誕200年は、新コロナの出現・拡大という試練の年となった。生誕200年の記念事業・第一弾は、細菌が発見される以前、近代医学の黎明期に、革命とも思われた衛生改革に着手し、イギリスはもちろん世界の人々の命を救ったFNの論考である。論考はFN90年に渡る生涯と偉業を、\故ちとクリミアへの長い道のり、 ▲リミアの天使として、 ライフワークとした衛生改革の三部に分けて述べる。

あらまし

FNの両親は、どちらも農業社会の貴族だった。伯父の領地を相続した父(WEN)は、母(Funny)と結婚後、その地に新しい館を建築する計画を立てた。一家はイタリアへ新婚旅行し、そこで館ができるまで滞在した。イタリアで誕生した姉(Parthenope)とFNFlorence)は、どちらも滞在した都市の名前である。

FNが経験した決定的な出来事は、家族がヨーロッパへの旅を計画していた17歳の2月に、漠然とした神の声を聞いたことだった。FNは神のお告げを心の奥に秘めて、誰にも話さなかった。同年の9月に、一家はヨーロッパに向けて旅立ち、2年近く滞在してFN19歳の誕生日のひと月前に帰国した。

FNは大家族の中で、乳幼児や病人のケアと看取りを行った。そこで病気の経過を観察している間に、自然の力が働いて病気が癒されることに気づいた。しかし、病気や死の苦しみから人々を救うミッションを考えたのは、ヨーロッパから帰国した後だった。

FN26歳になったとき、館を訪れた病院長に、病院で働きたいと申し出た。家族は「病院」と聞くだけで身震いした。当時の病院は不潔きわまり、病人とナースは酒におぼれ、道徳など考えなかった。例外はカソリックのシスターたちによる看護だった。

その日から8年間、自分のミッションを考えてから14年間、FNは家族の強い反対の中で、看護への厳しい道を歩んだ。秘密裡に学んでいた数学をベースに、専門家から統計学を学び、イギリスとヨーロッパの病院で資料の収集・分析を続けた。やがてドイツの看護学校へ入学(30歳)し、ロンドンの婦人病院の監督(33-34歳)を務め、国家の信任を得て、クリミア戦争で負傷兵を看護(34-36歳)した。

「クリミアの天使」の名声は、ヨーロッパへ、そして世界に広まった。赤十字の創始者(Henry Dunant)は、後にロンドンの講演 (1872)の中で、FNの偉業を称えた。しかし、FNにとって、クリミア戦争看護(1854-56)は一つの到達点に過ぎない。戦場の泥の中で空しく死んでいった兵士の声が、FNを更に厳しいミッションに駆り立てた・・・。

結 語

FNの最大の貢献は、クリミア戦争の後で半世紀近い間、衛生改革によって兵士たちの、そして世界の人々の病を癒し、苦しみを緩和したことであろう。FNが生涯をかけた衛生改革は、ベストセラーとなった二冊の著書、『病院覚え書』と『看護覚え書』に垣間見ることができる。それは、健康なときも病気のときも、自然の法則を敬う環境の中で行う心と体の看護であり、今も世界中で継承されている。

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